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 上野誠と劉峴    2004年6月21日
ー日本の軍国主義と侵略を描いた唯一の作品ー

 日本には戦争・侵略を肯定的に描いた絵画作品はたくさんある。いわゆる戦争画である。また,戦争被害を描いた作品も丸木位里・俊の「原爆の図」はじめかなりの数がある。
 しかし、戦争や侵略を加害者としての立場から描いた作品は残念ながら皆無である。私の知る限りあらゆるジャンルを見渡してもひとつもない。

 ところが、上野誠がこのような作品を描いている。だがその作品は現在国内には存在しない。

 年譜によれば1937年「平塚運一の紹介で帝国美術学校の中国人留学生であった劉峴と出会う。劉峴の勧めによって内山書店で魯迅編「凱援・珂勒恵支版画選集」(文化生活出版社、1936年)を購入。以後コルヴィッツに傾倒し、版画制作に決定的影響を受けることになる」のであるが、このときの出逢いについてこう書いている。

「平塚運一先生の紹介で会った劉峴は、文豪魯迅の序文付の自作版画集を私にくれた。魯迅に推薦される人物なら意おのずから通じるだろうと、先の作品の余白に”日本帝国主義戦争絶対反対”と書いて渡すと、真意たちどころに通じ硬い握手となった。この劉君が神田一ツ橋の内山書店へ行ってケーテ・コルイッツの画集を買うように勧めてくれた。これは魯迅編集で今は貴重な初版本として愛蔵している。盧溝橋事件が勃発すると、急ぎ帰国するからと挨拶に来た劉君に、何点かの作品を進呈したら、上海で発表すると約束してくれた。この人は立派な版画家になり今も健在である。コルイッツの画業に導かれた劉君との出会い。若き日のこの思い出は、いつも私を初心に帰らせてくれる。」(上野誠版画集ー日本平和委員会1976年刊ー)

 ここに「急ぎ帰国するからと挨拶に来た劉君に,何点かの作品を進呈したら、上海で発表すると約束してくれた」と書かれた作品は上野がひそかに隠し持っていた日本の中国侵略を告発した版画であった。

「その頃、いわゆる満州国に駐屯する日本軍は匪賊討伐に名を借り、中国人や在満朝鮮人の抵抗運動に惨虐(ママ)な弾圧を加えていた。ある時、郷里で一人の帰還兵から弾圧の記録写真を見せられ息を呑んでしまった。たとえば捕らえた人々を縛り上げて並ばせ、その前で一人ずつ首を切る。今や下士官らしきが大上段に振りかざした日本刀の下に、首さしのべ蹲る一人、とらわれびとらの戦慄にゆがんだ顔、諦めきった静かな顔、反対側の日本人将兵はいかにも統制された表情で哂っている者さえいる。~屠殺場さながらなのもあった。切り落とした生首が並べられ、女の首まであった。戦利品の青龍刀・槍・銃などが置かれて」将校兵士らが立ち、戦勝気取りだが国際法を無視したこのおごり、逸脱退廃、自ら暴露して恥じない力の過信憤激したわたしは、背景に烏を飛び交わせ暗雲を配し、叉銃の剣先に中国人の首を刺し、傍らには面相卑しく肩いからせた将校を立たせた版画を作り、ひそかに持っていた」(同上 版画集)

 この版画の行方はどうなったのであろうか。
 
 ここで出会った中国人版画家劉峴は後に中国版画協会の理事をつとめ、上野の死後全版画集に下記のような追悼文を載せている。

永遠の友誼ー木刻家上野誠を記念して記すー    
 1936年の春から夏へのとある日、私は平塚運一先生の家で食事をし、同席した上野誠先生を識った。紹介がすむとお互い木刻について大いに語り合った。まるで久しぶりに出会った古くからの友人同士のようであった。彼は私に誠実かつ情熱的な印象を与えた。のちに私は彼の家を訪ねたこともあった。1937年抗日戦争が勃発し、わたしが帰国しようとしたとき、彼は手刷りの木刻作品二十余枚をわたしに贈って別離のよしみを表わそうとし、こう言ったことを覚えている。『日本人民は中国人民に対し親善的です。いつの日か中国を旅して貴方に再会できることを希望しています。木刻術は中国が発明したものです。それは印刷術が文化を伝え広める先触れです、、、、』この奥深い友情の言葉を、わたしは今もって忘れることはできない。別れに当たって、彼はわたしのために自動車を雇い自ら送ってくれた。その後音信は途絶えた。彼が贈ってくれた二十余枚の木刻作品は、すべて日本労働人民の生活を反映したもので、その中の幾枚かは、わが国の東北人民が日本軍国主義の殺戮下にある情景を描いたもので、深く人を感動させた。これらの創作は、作者の崇高な人道主義の思想を伝えており、わたしは改めて上野誠先生に敬服した。
 わたしは、これらの木刻作品を上海に持ち帰って中国人民に紹介したら、かならず意義があると考えた。わたしは、当時『文学』月刊の主編だった王統照先生と相談しこれを発表すること決め、わたしの文章を添えて紹介することになった。ところが、中日戦争の拡大によって刊行物の印刷が縮少されやむなく中止となった。上野の木刻作品をわが国に紹介できなかったのは誠に残念なことであった、、、(後略)」

 中国に持ち帰った上野誠の作品がどうなったか劉峴は何も書いていないのでわからないが、彼がその版画を持っていたならば、上記の文の中でそれについて触れていたに違いない。だとすると新しくゼロから探すしかないので、わたしは中国に行く人に何回かこの版画を探してみてくれと頼んでいるがまだ見つかっていない。
 もし、探し出すことが出来るならば、上野誠の画業としてだけでなく、日本人芸術家の良心の証言としても貴重なものになるに違いない。

 この通信をご覧の方で心当たりのある方、中国美術界にお知り合いのある方でご協力いただける方がおいでになりましたらご連絡ください。
 


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