宮本顕治元共産党議長の死に思う     2007年07月18日

 元日本共産党議長の宮本顕治氏が7月18日に亡くなった。享年98歳だった。

 宮本顕治については実に多くの思いがある。私の青春時代は宮本顕治は憧れの的であり、レーニンと並び神様のような存在だった。

 宮本顕治は他の人には真似のできない傑出した政策と方針を打ち出した。それは、共産党内で絶大な力をもっていたので可能になったのかもしれないが、傑出した方針を考え出せたから絶大な力をもてたともいえる。

1、思い切った人事
 共産党の人事を見ると、不破哲三の異例の書記局長抜擢があり、志位和男の抜擢があった。
 現在、不破哲三は委員長を志位和男に譲り、既に第一線を引退しているが、彼が書記局長になったときは驚いた。まさか彼がなるとは思っていなかったのだ。たしかに不破の力は優れていたけれど、当時は兄の上田耕一郎のほうが華々しく活躍しており、どちらかと言うと不破はその陰に隠れていたように思う。ところが一気に不破が兄を飛び越して書記局長になったので多くの人は驚いた。
 志位和夫が書記局長になったときはそれ以上驚いた。彼は上田や不破のように第一線で華々しく活躍していた人物ではなかった。私は「前衛」で彼の論文を読んだ覚えはあるが、書記局長になるとは全く予想していなかった。志位和男35歳のときのことである。不破が書記長になったのは45歳ぐらいではなかったろうか。
 このような思い切った人事はその後は見られない。

2、自主独立路線
 日本共産党の自主独立路線は世界の共産党の中でも際立った特徴を持っていた。当時のソビエト共産党は突出した力を持っており、その党に異議を唱えることなど考えられないことだった。ところが、日本共産党はこの党の路線に異議を唱え、論戦を挑んだ。わたしは「ケネディと帝国主義」という論文を読ん「なるほど、情勢分析とはこのように行うのか」と感動したことを思い出す。この論文は宮本顕治が書いたものではなさそうだが、彼の路線に沿った論文であったことは間違いない。このときは中国共産党も同一歩調をとったので、日本共産党は中国派だと思われた。ところが、文化大革命前後からは中国共産党とも一線を画すようになり、大論争をし、最終的には両党間の関係は断絶した。

 ソ連共産党や中国共産党と日本共産党との関係がどのようなものであったかは知らないが、弟の親友だったTさんはソ連に渡り当地の大学に入学した。帰国してから「彼はソ連派になってしまった」という噂を聞いた覚えがある。
 中国には、ごく親しい友人が何人か渡った。文化大革命が始まる直前に、ほとんど逃げ帰るようにして帰国した。「俺の周りにいた共産党員は実に立派な人で村人から信頼されていたが、紅衛兵から猛烈に批判された。信頼されていたこと自体が偽善だと言っていた」「紅衛兵と話したことは何回もある。彼等は”毛主席のことばは絶対である”といっていた。毛沢東語録の最初に、共産党こそ最高の組織だ、と書いてあるので”これは本当か”と問うと”そうだ”と答える。”主席は共産党を破壊せよ、と言っているが、これはうそか”と問い詰めると”毛主席の言うとおりだ”と答えるのだ。彼等にとって、毛沢東崇拝は神様を崇拝するようなもので理屈で説得しようとしても出来るものではない」という話を聞かされた。
 
 私が読んだかぎり、論戦では日本共産党が有利だったような気がする。それは後になるほどはっきりしてきた。後になってみると、自主路線は日本共産党を救ったことが分かるのだが、最初は誰もそのことを予想することはできないのだ。世界中の誰もがやらなかったことを始めたことの意味は計り知れない。
 私は、この方針が出てきた前提には50年問題の解決があったと思うのだが、それは別の機会に考える。

3、自由と民主主義宣言
 やはり、50年問題の解決と関連するのが、「暴力革命路線との決別」と「議会を通しての日本の改革路線」である。
 日本をアメリカから完全に独立させることと、徹底した民主主義国にするという方針は「自由と民主主義宣言」や「民主連合政府」という形になり、共産党が国民の前にぐっと近づいたように思う。それまでは共産党=暴力革命というイメージがまだ強かったが、この時期を過ぎてからは一般的にも共産党=暴力革命のイメージはほぼ払拭された。革新自治体が次々に誕生したのもこのような方針が機能していたように思う。宮本顕治が「現在は小異ではなく大異をすてて大同につく必要がある」と発言していたことを思い出す。

4,統一戦線と統一行動
 統一戦線についての宮本顕治の果たした役割は大きいと思う。それは60年安保闘争で発揮された。共産党はここで「安保共闘」を主張して統一行動のつみあげを提起した。「安保条約改定反対を目標とする勢力が共同行動をすること」と「参加団体が合意した行動のみを行うこと」(暴力を認めない)を厳しく主張し、およそその方向で闘いがすすめられた。このような方針や行動は一部から「お焼香デモ」などと罵倒されたが、結果を見ると、この方針が徹底されたから安保闘争はあれだけ大きな闘いになったことは明らかである。この戦術の成功がそれ以後の共産党のあらゆる闘いの基本になっているような気がしている。

5、党勢拡大とアカハタ拡大運動
 宮本顕治の行ったユニークな活動の中でも最も成功したひとつが党勢拡大運動であった。この活動の中で大量の党員が生まれ、宮本顕治の党内での立場は磐石になった。
 当初「アカハタ倍加運動」が提起されたとき、多くの県や地区は戸惑っていたように見えたが、佐賀県が二倍化に成功したニュースを見て、日本中の共産党は奮い立って倍加運動を始めた。当時、共産党は極めてわずかの勢力だったが、安保闘争の先頭に立って闘った党員の姿や主張は、活動家の中で大きな信頼を得ていた。そのこともあり、アカハタ拡大と党員拡大運動は大成功し、共産党の力は一回りも二周りも大きくなった。

6、選挙管理内閣
 あまり知られていないが、60年安保直後共産党は「選挙管理内閣」を提案した。「議会制民主主義を守るために総選挙を実施しなければならないが、そのための選挙管理内閣を共産党を含めてつくろう」という提案だった。いま、手元に資料が無いので正確には分からないが、当時の共産党勢力は微々たるもので、国会議員は2名ぐらいだったのではなかろうか。そのような中でのこの提案にわたしは度肝を抜かれたことを覚えている。この提案は全く相手にされなかったが、政府のあり方や共闘のあり方を考える上では重要な問題提起だったと思う。
 このような思い切った提案は宮本顕治にして初めて可能だった。

7、共創協定
 創価学会と共産党は以前から仲が悪かった。選挙での支持層がダブっていたり、基本的なスローガンが似ていたりしたからだろう。その創価学会の池田大作と宮本顕治が協定を結んだのだから世間が驚いたのはもちろん、共産党の人でさえびっくりしたようだ。松本清張が中に入って実現したのだが、これも、宮本顕治だからできたことである。私は今でもこのときの合意はすごかったと思っている。なぜこれがうまくいかなかったのか分からないが、もし機能していれば、現在の政治は大分変わっていただろう。

8、宮本路線を引き継いでいる不破・志位時代
 マスコミ報道を読むと、現在の共産党は柔軟路線を歩み、宮本時代とは変化しているかのようである。たしかにその面はあるが、基本がそれほど変わったとは思わない。むしろ、思い切った方針を提起することがなくなったように思う。宮本時代には予想外の方針が出されることが何回もあった。「党勢拡大」「自主独立」「共創協定」「同和問題」「ソ連解体を歓迎する」発言、「若返り人事」などである。これらは最初発表されたときは誰もが驚いた。恐らく誰も予想していない方針だったからだ。しかも、共創協定以外はほぼ成功している。これは共産党内の意思統一をすることからはじまって並みの政治家が出来ることではない。

 ところが、宮本以後の共産党の方針はほとんどすべて予想できたしまう。せいぜいが、野党外交であるが、これは共産党だけでなく他の政党も以前からおこなっていた。天皇制問題はあるいは新しい路線かもしれないが、この問題については別に考えたい。
 今大切なのは、宮本時代に提起され確立したかに見える遺産に乗っかるのでなく、それを見直したり新しい方針を提起することではないだろうか。党内民主主義と情報公開、赤旗・党員拡大運動のあり方、平和運動や組織のあり方、他団体や他党派との共闘のありかたなど、工夫することは多いと思う。

 不破哲三がマルクスやレーニンを新しい視点で読み直し研究している。私は本の一部しか読んでいないのでなんともいえないのだが、書評や紹介で読む限りでは、日本共産党がいままでおこなってきた理論活動や政治活動の後付けをしているように見える。現実の政治活動の中で、旧来のマルクス主義路線(と思われてきた)を打ち破り、改革をおこなってきたのは宮本顕治であった。



 宮本顕治がおこなった事で疑問もいくつかある。

1、新日和見主義問題
 川上徹という名前は若い頃の私にとってはかなり親しい名前だった。彼をはじめとした大量の人物が「新日和見主義」として批判されたことについて、当時の私たちは「大変なことが起きているようだ」とは思ったが、実際には何事が起こったのかわからなかった。今もって分からない。当時の論文や川上・油井等の著作を読んでみてもよく分からない。両者を読み比べた限りでは、あるいは共産党の側にミスがあったのではないかとも思えるのだが、本当のことは分からない。
 この「事件」の後、民主青年同盟が十分の一に激減したことは後に知ったのだが、大きなマイナスだったのではなかろうか。

2、同和問題
 部落解放同盟を民主団体と認めず、これとの闘いを開始したのも宮本顕治にして可能だったと思っている。この問題は大変な波紋を引き起こし、革新団体の中に大きな亀裂をもたらした。日教組など労働組合内部での亀裂だけでなく、革新自治体のアキレス腱になっていた。正確な総括は私には出来ないが、私の住んでいた望月町や長野市の状況や、その後の利権問題などの経過を見ると、先見の明があったように思う。

3、「赤旗」連載中断や一連の出版問題
 赤旗に好評連載中だった森村誠一の「日本の暗黒」が突如として中断された。理由はわからない。さまざまな憶測がされているが、宮本顕治のいわゆる「リンチ殺人事件」が取り上げられるので強引に止めさせたのではないかと言われている。著者の森村にも一切の説明がなかったという。森村はこの措置に抗議して共産党との関係を一切断絶した。いわゆる「リンチ殺人事件」は立花隆が取り上げ、それを受けて民社党の春日一幸が国会で問題にしたが、私が調べた限りでは、殺人には無理がありすぎるから、宮本顕治や共産党にとっては、むしろ森村に最新の調査結果を書いてもらったほうがよかったのではないかと思っている。
 また、有田芳生の編集した本の出版なども共産党のためには有益だったように思うのだが、なぜか処分された。これも宮本顕治がいて起こった問題ではないだろうか。
 私は宮本顕治を尊敬しているが、これらの問題には違和感を感じている。

4,丸山真男批判
 丸山真男が「共産党の戦争責任」を唱えたことへの批判も私にはよく分からない。戦前の共産党のことをよく知らないし十分な勉強もしていないのではっきりとはわからないのだが、あれほど批判しなければならないのかについては疑問に思っている。
 常識的になるかもしれないが、大きく見れば日本の進歩的勢力の一部である丸山真男を敵のように扱うことには賛成できない。私などが見ると、丸山の言っていることは「共産党も戦前の運動をもっと深く総括(自己分析)すべきだ」と言っているように見えるのだがどうだろうか。「なぜ、大量の転向を生み出したのか」「なぜ、統一戦線が出来なかったのか」「なぜ、中枢部に大量のスパイを潜入させてしまったのか」など共産党の文書を読んだ限りではよく分からない。

5、原水禁の統一問題
 原水禁の統一が実現しそうになったときにかなり強引にそれをひっくり返したことも、よく分からないことのひとつだ。私などは素朴な気持ちで「統一してくれないか」と願っていたので、些細な部分で統一が出来なくなったことにがっかりした覚えがある。今考えれば、現象としては些細であったが、分裂は絶対の方針だったのかな、とも思っている。そうだとしたら、このときの方針は果たして正しかったのかも含め、さらに調べてみたい。

 こう見てくると私が宮本顕治に対して疑問に思っているところは「敵・味方」の分け方の違いにあるように思う。私は単純に「日本国憲法(主権在民、人権主義、平和主義)を肯定するか否定するか否か」「暴力的な方針を持っているかどうか」を基準にしているのに対し、宮本顕治は別の基準を持っていたような気がする。私はその基準がよく分からないのである。

 ともあれ、このような宮本路線の骨子は50年問題を経て六全協から7回大会、8回大会の路線論争のなかで形成された、と思っている。いずれ、時間をかけてじっくりと調べてみたい。


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