川中島の民話発掘と絵本つくり 2、    2007年9月9日

 「川中島の民話発掘と絵本つくり」は北原の延命大仏について調べたり、大仏のお話作りに焦点を当てたものになりつつあります。

1、北原大仏とは
 川中島北原に「北原の延命大仏」といわれている阿弥陀仏があります。案内板によるとこの大仏は「高さ3m幅2m40cmで江戸時代の寛政年間(1788〜1800)に作られた寄木つくりの乾漆仏」とあります。木で枠組みを作りその上に漆を塗った布を貼り付けて作られています。地域の古老によると、この仏像は寛政年間に江戸で作られ、大輪坊という僧がこの地に寄進したということです。だが、残念ながらくわしい資料は無いとのことで多くの疑問が残っています。

            北原大仏殿                  阿弥陀如来像と子安地蔵

2、大仏像と子安地蔵
 延命大仏と言われている阿弥陀如来像は長野県か随一の大きさを誇る大仏で、子安地蔵も高さ2mの大きな地蔵です。近寄って詳しく見るとなかなか立派な仏像で、江戸時代に旅人が立ち寄って拝んだといわれるだけのことがあるように見えます。

            大仏・頭部                           大仏・印結び

      大仏坐像              子安地蔵                子安地蔵・組足   

 子安地蔵については、私の少年時代「この地蔵は隠れキリシタンのマリア像だ」といわれていました。抱いている子どもが真っ白であることや、いかにもかわいらしくて外国のキリストを抱くマリア像のように見えたからです。だが、鑑定の結果は「マリア像ではない」とのことだったそうです。

3、疑問続出の大仏
 さて、お話を作る段になってから、疑問が続出しました。
@ 仏像を寄進した大輪坊とはどんな坊さんだったのだろうか。調べてみても分からない。
A 江戸で大仏が作られたといわれているが、普通は「災害の犠牲者の供養」のためなどの理由があるが、いつ、誰が、どのような目的で作ったのかが全くわからない。
B 江戸からこの地まで運んだそうだが、そのためには莫大な資金と労力を必要とするはずだ。それをどのようにして工面したのだろうか。また、どのような方法で運んだのだろうか。
C 大仏が川中島町北原にある理由が分からない。大輪坊はなぜこの地に阿弥陀堂を建てて大仏を安置しようと考えたのだろうか。
D 大仏殿(阿弥陀堂)の大きさは10間×4間といわれているが、これだけの建物を建てるには相当の資金が無ければ不可能である。その資金を集めるにはそれなりの納得できる理由があったはずだ。
E 北原大仏が江戸時代、善光寺参りの旅人の参拝対象であったことは資料(善光寺街道名所絵)で分かるが、そこに記載されている旅籠や池などはどこにあったのだろうか。

北原村に大仏の阿弥陀堂あり  摂待所なり 其の向かいに旅籠茶屋松屋何某といふは 川中島古戦場の旧説 数年来吟味して 案内くはしく 即ち 其の図面を板行して 旅人にこれをひさぐ 
又裏に池あり 大なる鯉を数多く貯ふ 其外まはりに蜜蜂を飼ひて 蜂の蜜をとれる家ありとぞ
           善光寺街道北原(善光寺街道名所図会 巻四)

4、その後調べたこと
 @ この大仏の制作された時代は寛政年間だとされているが、以前は鎌倉時代の作だといわれていました。(昭和小学校百年史) 果たしてどちらが正しいのか現状では決め手がありません。
 A 建物の大きさも昭和小学校百年史によると10間×8間という説と15間×8間という説(いずれも今井村高辻帳)があります。
 B 大仏は明治初年の「無檀無住の寺院庵堂の廃止」通達を受け、今井の切勝寺に受け入れてもらったそうですが、資料によっては「廃仏毀釈令」によって阿弥陀堂が壊され、切勝寺に引っ越したと書かれているものもあります。
 C 今井までは1、5kmほどありますが、この間は丸太を並べたコロに乗せて運んだという証言記録が見つかりました。
 D 現在ある北原までは昭和24年11月に運びましたが、この記録はたくさんあります。
 
 以上のようなことが分かりましたが、これを元に何とかお話を作り、そのお話を絵本にしようと考えています。調べては見ましたが、分からないことだらけなので、お話のほとんどは想像して作るしかありません。どのようなお話が出来るかは、次回のお楽しみといたしましょう。


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