景川弘道さん訪問記    2008年2月10日

 2月3日・4日の両日北見市の景川弘道さんを訪問した。
 長野から北海道は遠いのだが、思ったほどはかからないで行ける。今井駅朝9時01分発の列車で新幹線に乗り換えると、東京11時04分着、羽田には12時前に着いてしまう。羽田発12時45分の飛行機に乗ると女満別には午後2時30分に到着する。その間、5時間30分余である。新幹線が走る以前だったら我が家から東京に行く時間とあまり変わりない。

 こんな計算で羽田まで行ったのだが、羽田に近づくにしたがって雪が降り出した。羽田に着いて航空券を買おうとするが搭乗券が発行されない。空港が雪のため欠航になるかもしれないというのだ。札幌行き、仙台行き、秋田行きが次々に欠航になるが、女満別行きだけは出発するという。漸く3時過ぎに出発した。

 宿舎の東急インに着くと伝言があり景川さんに電話するようにとある。早速連絡して到着を知らせ、景川家に赴いた。景川さんは予想以上にお元気そうだった。最初の応対は長女の三依(さより)さんだった。伝言も彼女が心配して調べてくれたのだ。

 今回の目的は「景川展のお知らせ」「生い立ちなどを聞くこと」「作品の調査」「受賞のお祝い」であった。
お祝いについては中心でないのでお祝いにマフラーを差し上げ、あまり触れることはなかった。
 生い立ちについては帰り際に一冊のコピーをいただいた。そこに少年時代までの思い出が書かれていた。それによると景川さんは鳥取県生まれで、5歳の時親戚と共に北海道に入植したという。北海道では国鉄に入ったがレッドパージにあって失業し、それ以後現在の地で雑貨商を営んでいるとの事である。


 今は一人住まいでお二人の娘さんが交代で面倒を見てくれているようだ。
 今回は景川さんの生い立ちについてお聞きした。北海道の人かとおもったら、なんと鳥取生まれだそうだ。鳥取市から8キロほど離れた村に生まれたが、五歳のとき北海道に渡り苦労しながら成人した。景川さんは奥さんと二人で日本中すべての県を車で旅して歩いたが、生まれ故郷へは一度行ったきりで二度と生きたいとは思わないそうだ。幼少のころの思い出のふるさとと現在の町があまりにも違っていて、生まれ故郷という感慨はひとつもなかったという。少年時代は早熟で同人雑誌などを作っていた。歌を作るようになって『改造』の懸賞に応募して入選した。北原白秋がほめてくれた記事が『改造』に載った。同じころ宮本顕治が懸賞論文に「敗北の文学」を書いて一等になり、小林秀雄が「様々な意匠」を書いて二等になった。こう見ると景川さんは版画や油絵より短歌のキャリアのほうが長いということが分かり、驚いている。

 今度の訪問で一枚教えてほしい作品があった。茶色に変色した紙に摺られた版画で、工場の内部のように見える。それも鉄道関係だろう。機関車の動輪らしきものが2輪ある。紙の様子から1940年代のものに違いない。作風は現在の景川さんのものとは違うので、あるいは別の人の作品かもしれない。そこで実物を見てもらおうと思った。
 作品を取り出して広げると、景川さんは「これは僕の作品で、国鉄の工場内部だ」と教えてくれた。「このころぼくは国鉄に勤めていたのだが、レッドパージになって辞めさせられたのだ」「この版画は労働組合の事務所に貼られていたと聞いたことがある」と話してくれた。これでこの版画は飾ることが決まった。

 前回訪問したとき見せてもらった作品の量と質がすごかったので、今回も是非見たいと思い、お願いした。後で分かったのだが、景川さんの家は広く、15室あるそうだ。通常暮らしているのは一階の台所とつながっている食堂兼居間兼寝室だが、二階にいくつかの部屋があり、三階にも倉庫のような部屋がある。外に出て別の入口を入ると収蔵庫のようなへやがあり、別の側から入ると前回訪問時に見せてもらった作業小屋兼倉庫がある。

 二階に案内していもらったが、真冬の北見である。冷蔵庫より寒い部屋なのでジャンパーを着ていても寒さがすごい。数分したところで案内してくれた景川さんと娘さんには戻っていただき、一人で作品を拝見した。


 とりあえず目の前にある棚の作品を引き出してみるとヨーロッパを訪問したときの作品があった。これがなかなかいい。次々に出してみているうちに写真に撮りたくなり、気に入ったものを撮り出したら、やめられなくなり十数枚も撮影した。私は気に入ったのだが皆さんはどうだろう。


 ヨーロッパだけでなく北海道の風景もすばらしかった。特に湿原を描いたものは気に入った。



 このような作品を多数描いてきた作家が認められないでいることは納得できない思いをしている。
 上野誠と景川弘道の交流をここ「ひとミュージアム上野誠版画館」で別の形で続けたいものである。


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