続・北原大仏について    2008年3月9日

 3月6日(木)長野市立博物館の降幡浩樹さんを招き北原大仏関係の話をしてもらった。というより、調査の結果をお聞きした。
1、北原大仏についての資料は「昭和小学校百年史」がもとになっている。

2、その原本は「堀内家文書」である。阿弥陀堂の年貢の免租については宝永3年今井村指出帳、寛政4年差出明細帳にあり、阿弥陀堂の由来については宝暦8年・10年 今井村差出明細帳にあると思われるのでこの調査をしたらどうか。

3、当時の今井村は大変豊かであった。宝永3年(1706)の石高は約1000石で、人口は519人、家数121である。慶応3年(1867)には家数222、人口1020になっている。つまり、この間に今井村の収入は大幅に増えていることがわかる。年貢は最初と同じである。

4、大輪坊は寺院の住職ではなく諸国を行脚して歩いている僧である。このような僧侶は当時はたくさんいた。常陸の国の大輪寺とは関係ないだろう。

5、大仏の運び方は分解して運ぶ方法もあったが、現地で組み立てる方法もあった。頭を運び、首から下は現地で作ったことも十分ありえる。頭部のつくりがとてもすばらしくて、一流の仏師の作であることが推測できるので、江戸で造られたことは十分考えられる。
 
 この話を元にして参加者から質疑があった。

 興味深かったのは当時の街道というのが多少理解できたことである。当時旅をするには手形が必要であった。手形は村役人が発行した。その手形を持っていれば、途中で病気になったり、死んだときは街道沿いの村から無料で出身地まで送り返される。費用は相手持ちであった。街道以外の場所で行き倒れになってもその村では送り返す義務はなかった。

 「善光寺道名所図会」に載っている「旅籠茶屋」とは宿泊可能な茶屋であるとのことであった。旅籠は宿泊できる場所で食事ができた。茶屋は飲食のみだった。木賃宿は素泊まりのみだった。北原は宿場でないのに旅籠茶屋があるのはなぜかというと、宿泊費が安いからここに泊る客がけっこういたのだという。本来ならば善光寺の宿坊に泊まるのだが、宿泊料金が高いので善光寺から遠い丹波島に泊まる客は多かった。更に遠い北原に泊まる客もいたというわけである。遠くなるほど安くなるのは現在と同じであった。ただし、これは「もぐり」である。正規には宿場以外で宿泊施設を作ることは禁止されていたが、実際はその決まりは守られなくなっていた。

 「善光寺道名所図会」の北原に載っている「松屋」はどこのお宅かわからないが、この主人は松屋栄助である。栄助が作った絵図はたくさんある。長野市立博物館にもいくつかある。


 江戸末期に村から藩に寄付金を徴用されたが、そのとき今井村の有力者は一軒から200両とか300両だす家があった。町田さんのところは100両出したそうである。ということは、村が大変裕福であったということで、大仏を維持することが可能であったことがわかる。

 北原に残っている百観音の元になっているお札は村人が巡礼して集めたものであると思われる。当時は西国巡りや秩父巡り、坂東巡りをする人はかなりいた。彼らは講を起こして金を工面して旅に出た。そこで頂いてきたお札を拝んだりしたようだ。寺巡りをしたことを記念して碑を建てた例もある。大輪坊が寺を巡った可能性は少ない。

 これ以上調べるとしたら「堀内家文書」を調べてほしい。

 このようなことが話されまた、一歩前進した会になりました。

追加
県立歴史館で堀内文書を調べましたが、関係する項は見当たりませんでした。

       堀内文書                 堀内文書


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