上野誠の生涯    2008年5月17日

 「川中島の民話発掘と絵本つくり」の会をおこなった。先月の会で藤井さんから「上野誠の話を作ったらどうか」という提案があり、参加者一同「なるほど」と納得し、とりあえず私が骨格を作ろうと考えた。

 まず、上野誠の生涯を年代を追って書いてみようと思い書き始めた

上野誠は1909(明治42)年 更級郡川中島村今里阿弥陀堂(現・長野市川中島町今里)に父内村直治、母よりの三男として生まれました。内村家は阿弥陀堂で代々漢方医を営んでいました。かなり大きな医者で入院施設もあり、近くはもちろん新潟方面から来る患者もいたようです。

 父親の直治は新しい時代の先端を取り入れることが好きで、当時はほとんど見られなかった自転車を購入してそれに乗って往診していたそうです。この父親から誠少年は内村家の先祖の話を繰り返し聞かされたそうです。かつてこの村が大飢饉におそわれたとき、百姓は年貢どころか自分の食べるものさえなくなってしまいました。その時庄屋をしていた内村の先祖は年貢の減免を願い出るため代官のところに赴き、村人の窮状を訴え年貢の減免をお願いしました。幸い年貢は減免され農家は救われましたが、庄屋であった先祖は処刑されたのでした。誠少年はこの話を聞き、自分の先祖が村人のために命を投げ出したことを誇りに思いました。

 誠は日新小学校から長野中学校に進学しましたが、同じ日新小学校の一年後輩で後に信州大学教育学部の美術科教授になった田原幸三がいました。二人は互いに親しみを持って付き合っていました。

 長野中学では美術部に入り山本俊治に教えを受けました。山本俊治は三輪寿壮や加藤勘十らとも交友があったようで、誠の生き方にも影響を及ぼしたと推測できます。誠は山本先生の勧めで東京美術学校に進学したいと考えるようになり、二年浪人した後1931(S6)年、東京美術学校図画師範科に入学します。夜間には津田清楓の画塾に通い清楓や安井曽太郎にデッサンを学びました。

 学内の共産主義青年同盟の影響を受け学内改革運動に参加したり全国労働者組合評議会教育労働者部(教労)のオルグによる学習会に参加しました。この年の9月満州事変が起こります。

 翌年、学内民主化を求める学生大会に参加しましたが、7月に検挙されました。10月釈放されますが学校は退学になりました。仲間との学習は続けていましたが12月教労の印刷物を発送中に再び検挙されました。この頃の様子について誠は後日短歌に詠んでいます。

 わが自由奪いし刑事ら得々と殺すもよしと唇を剥く

 責められて遠くなりゆく意識下にデカの心情許さじと哄う

拷問に絶叫して母を呼ぶ見給う勿れこれが生みの子

学生さんえらいもんだとシャポー脱ぐ前科三犯刺青の人

わが組織一人の友にあばかれぬしばし虚となりむなしかりけり

我がための犠牲はひとり出さずして処分は“放校”すがしかりけり

 起訴保留、釈放後は長兄の家に身を寄せミシン修理の見習いをしたり兄の手伝いをしていましたが、初夏のころより、東京本所堅川町で約二年間、綿製品の仕上げ工(ワイシャツのアイロンかけ)として働きました。同所で一緒に働いていた親友長谷川正巳と共同で仕上げ屋を開業しましたが、事情があり半年ほどして川中島に帰りました。その後、京都で店員をしたり、川中島で鉄道工夫、土工などをしながら小林朝治ら北信濃の版画家と、平塚運一の指導を受けて木版画を習得しました。
 
小学校の同級生であった故・堀田仁夫さんはこの頃の上野について「犀川の砂を運ぶ仕事をしていたが、仕事がきつくてへばっていた。その上野を何くれとなくかばってくれた親方を描いたのが『親方』と題された版画である」と私に語ってくれました。

 1936(S11)年国画会に内村誠の名で『こたつ』という版画を初出品し入選を果たします。それ以降1944年まで継続して入選します。10月には上野チイと結婚し、姓を内村から上野に変えますが、結婚のいきさつは次のようなものでした。
 誠は美校に新潟県出身の上野省策という親しい友人がいました。ともに同じ思想を持っていた仲間でした。その彼が「いとこにいい娘がいるから付き合ってみないか」と上野チイを紹介したことが縁になり結婚したそうです。

 また、姓を上野に変えたいきさつについて群馬の築比地さんは私にこんな話をしてくれました。
  「内村(上野)は文検を受けて教師になることが出来たが、検定を受けるとき、今までの名前を使うと落ちる恐れがあるので思い切って姓を上野に変えたといっていた」
 この話を聞いてなるほどと思いました。その前年当館を訪問された90才の上野チイさんに「上野誠先生は姓を内村から上野に変えましたが、そのことに抵抗はなかったのでしょうか」と質問しました。上野さんのこたえは「そのことについての抵抗感は全くなかったと思いますよ」とおっしゃっていました。姓を変えたいきさつが何であったにせよ、上野誠は自分の姓が妻の姓に変わることをまったく意に介していなかったようです。

 学校を退学になって「5年ほど経て元の美校教授松田義之先生を学校に訪ねたら、いたく喜ばれ、”きみ、文検を受けてみないか、君なら合格する”と奨められた。うれしくて、勇んで受けてみたら、はたして合格となり、次は就職の関門である。松田先生から当時の東京美術館長小川藤十郎先生へとバトンタッチ。”君、小気を効かせてやれよ、前歴はひた隠し”とのおさとし・・・」(全版画集)

 これらの証言を聞いて思うのは、資格試験を受けるにも、就職をするのにも、自分の身分を隠したり思想を偽らなければ出来なかったということです。

 1936年にはもうひとつ大切な出来事がありました。ある日、一人の中国人が上野誠の家にやってきました。彼の名は劉峴といって日本の美術学校に留学している若者でした。彼は平塚運一先生の紹介で上野を訪問しましたが、手土産に一冊の版画集を持ってきました。誠は早速開いてみますと、なんと序文を魯迅が書いているではありませんか。誠はそれを見て「この人物はただ美術を学んでいるだけの人物ではない」と気づき隠し持っていた版画を取り出してきて彼に見せたのです。

 その版画について誠は次のように書いています。

 『その頃、いわゆる満州国に駐屯する日本軍は匪賊討伐に名を借り、中国人や在満朝鮮人の抵抗運動に惨虐(ママ)な弾圧を加えていた。ある時、郷里で一人の帰還兵から弾圧の記録写真を見せられ息を呑んでしまった。たとえば捕らえた人々を縛り上げて並ばせ、その前で一人ずつ首を切る。今や下士官らしきが大上段に振りかざした日本刀の下に、首さしのべ蹲る一人、とらわれびとらの戦慄にゆがんだ顔、諦めきった静かな顔、反対側の日本人将兵はいかにも統制された表情で哂っている者さえいる。~屠殺場さながらなのもあった。切り落とした生首が並べられ、女の首まであった。戦利品の青龍刀・槍・銃などが置かれて将校兵士らが立ち、戦勝気取りだが国際法を無視したこのおごり、逸脱退廃、自ら暴露して恥じない力の過信、憤激したわたしは、背景に烏を飛び交わせ暗雲を配し、叉銃の剣先に中国人の首を刺し、傍らには面相卑しく肩いからせた将校を立たせた版画を作り、ひそかに持っていた』(1981 上野誠全版画集)

 この版画の余白に誠は「日本帝国主義戦争絶対反対」と書いて劉峴に見せました。

(つづく)


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