母の死   2009年2月3日

 母が亡くなった。
 2009年1月28日午後2時31分、享年93歳であった。

 介護施設から「血圧が急に下がったから来てほしい」という連絡があり、妻と娘と駆けつけたが、間に合わなかった。電話から、到着までは30分とかかっていない。顔も手も暖かく、昨夜会ったときと同じだったが、息をしていなかったし、呼んでも応えはなかった。顔は穏やかで昨夜来た時と変わらず、眠っているようだった。
 昼前は係りの方と応答し、昼には体を拭いて着替えをしたという。しばらくして、応答がなくなったので医者が来て血圧を測ったら急激に下がっていたので電話したとのことであった。

 昨年の後半から次第に食欲がなくなり、11月ごろからは食べることを拒否することもあったので、点滴をすることもあった。この時点で余命が長くないことを知り、身近な親族にはお知らせした。しばらく点滴をしたり自力で食事をしていたが、今年に入ってしばらくして、ほとんど食べなくなってしまったようであった。娘が行って食事を補助したら全部食べたといったのはそれ以後だから、すぐには亡くなることはないと思っていた。しばらく後、施設から最近の様子を聞き、今後のことを相談し,た。

 わたしは以前、母から「最後の時は延命処置はとってほしくない」と聞いていたし、私自身もそのように思っていたので、施設の方には「鼻から栄養を入れたり、喉を切り開いて食事をするようなことはしないでほしい」とお伝えした。このとき余命わずかだと思ったし、施設の方も予想されていたと推察している。ただ、その時間がどれくらいあるかは予想できなかった。

 葬儀については、近くの親戚と相談して準備したが、ほとんどは葬儀屋さんが行った。
 わたしは祖母・つるじの葬儀、弟・和(かのお)の葬儀、父・直次郎の葬儀を行ったが、今回ほど楽な葬儀はなかった。その経験を通して、わが家と親戚やご近所のつながりが希薄になったことを痛感した。

のぶの生涯

 母のぶは大正4年(1915)9月4日小諸市与良小山安治・ていの間に生まれた。
 生家は乾物(魚)問屋であり,一族は明治初期には中江兆民や自由民権運動ともかかわった進取な気風を持った家であった。また、小諸に在住した島崎藤村を応援したり、幸田露伴・小山周次らと親しく接していた家でもあった。母も「幸田のおじさん」「絵描きのおじさん」と親しく呼んでいた。夏に浅間山麓にある庄屋(本家)の別荘(清水)で幸田露伴から草や虫の名前や生態を教わりながら遊ぶのが楽しみのようだった。関東大震災の時のことも良く覚えており、居間にきていた絵描きのおじさんが、地震が起きると裸足で外に飛び出したこと、東京からの列車にたくさんの人が煤でまっ黒になって乗っていたこと、庄屋の叔父さんと絵描きのおじさんが手甲、脚絆で東京の家(安治の兄:小山悦之介宅)に向かったことなどを聞かされた。

 そんな経験をしながら、たくさんいた姉妹や従姉妹たちと少女時代を楽しく過ごしていた。小学校を卒業した後小諸女学校に入ったが、卒業後、上田高等女学校に進学し、同校の専攻科を卒業した。上田高女に進学するに際し、受験組が集められて勉強をしたそうである。その時小諸女学校の校長は「英語は敵性言語だから勉強しなくて良い」といって勉強させなかったから、英語の時間はほかの事をしていたそうである。ところが、入学試験には英語があった。ほとんど回答できなかったが、わずかに教わったことだけ書いて、かろうじて入学できた。「白紙で出せばいい」と先生に言われたとおり白紙で出した仲間は全員落とされたと話し「馬鹿な事を言ったもんだよ」といっていた。

 母にとって、小諸時代の姉妹、従姉妹の思い出と学校の思い出は生涯のうちでも最もかがやいていた。

 専攻科を卒業して間もなく更級郡中津村北原の田島康一郎のもとに嫁いだ。田島家は先代の三郎が分家した家で六町歩ほどの田を持つ小さな地主だった。三郎は病弱であり、学問を好んだが、家庭生活は亭主関白でわがままだった。三郎の妻のつるじは佐久望月の味噌・醤油を製造している商家出身で、上田高女へ行っていたが、三年生の三学期に姪のつるじをかわいがっていた伯父の比田井天来に「東京に出てきて内から学校に通え」といわれ、女学校を中退して天来宅に泊り、東京の渡辺服装学校(現:東京家政大学)を卒業した。学問はあったが、世間を全く知らず、亡くなるまで、魚屋と雑貨屋で買い物をする以外お金を自分で使うことを知らなかった。料理もホワイトソースやマヨネーズの作り方は知っていたが目玉焼きは作れなかった。すべて、祖父の命ずることを「はい」と従っているだけであったが、子どもや孫に対してはこれ以上ない愛情をそそいだ素晴らしいおばあちゃんだった。母は晩年「私があの世に行って一番会いたいのは、生みの母ちゃんよりここのうちのお母さんだ。あんなに性格のいい人はどこにもいなかった」と言っていた。

 康一郎には直次郎、伸、利子という弟妹がいたが、利子は女学校を卒業するとすぐ亡くなった。
 康一郎は長野中学を卒業するとラジオ屋を始めたり、県庁に勤めたが、祖父三郎がそれを好まなかったこともあり、つづかなかった。わたしと弟が生まれ、母が三番目の弟を身籠ったとき(昭和18年)、康一郎は召集されて中国東北部の牡丹江の部隊に陸軍少尉で入隊した。直次郎は小県の小学校の代用教員をしていたが、召集され、中国東北部黒竜江の近辺で兵隊になっていた。伸は屋代中学に通っていたが、病弱でしょっちゅう入退院を繰り返していた。

 病弱の祖父三郎はその頃からほとんど寝たきりになり、一家の責任は母が担うようになった。翌昭和19年三男譲が生まれたが、生後百日で死亡した。翌昭和20年、父が精神を病んで帰国し、間もなく日本は敗戦した。父の戦地での様子は偶然、従卒だった望月町春日のYさんに詳しく聞いたことがあるが、ここでは省略する。父の病状は悪化し、入院を余儀なくされた。同年10月に戸主であった三郎が亡くなった。

 昭和22年に農地解放があり、小作地を手放すことになった。そこへ祖父三郎の相続税がかかってきたので、地主が保有を認められた一町歩を手放して支払った。これで地主として所有していた土地と代償だった金はすべて消えた。これと重なるように父が精神病院で病死した。直次郎は満州から沖縄に送られたが宮古島で九死に一生を得て昭和22年に復員した。収入がなく費用だけが膨らむ中で母は嫁入りの時に持参した着物・長年かかって祖父が集めた古書を始め、家にある金目のものを次々に処分した。なお足りない分を実家や姉妹からの物心両面での援助によって食いつないだ。
 戦争末期から道路沿いの部屋を貸して少しの収入を得ていたが、これもわが家にとっては貴重な収入だった。店子さんとのお付き合いもいろいろあり、大切な思い出になっている。

 昭和23年に母は直次郎と再婚した。25年には弟和(かのお)が生まれた。この年直次郎は中津村役場に就職し、ようやく我が家は落ち着いた。

 それから、農地を少しづつ手に入れて百姓仕事を始めたのだが、誰も農業をしたことがなかったので、最初に手に入れた4畝歩の田植えをした時など、一家4人で早朝から1日かかってやっと植えることが出来た。ところが、その翌日「お宅の苗がみんな浮いちゃってるよ」と言われ父と母が一日かかって植えなおしたことなども覚えている。その仕事の中心になったのが母であった。田を少しずつ増やして最後は1反9畝歩になった。このときから自分の家の食料を自給できるようになった。 
 それぞれの事情で、半人前の農業を始めた親戚の堀内さん、本家の田島さんと我が家は共同して田や畑の仕事をし、親子ともども必死で働いて、何とか困難な時期を乗り切ることが出来た。その中心(農業)になったのが3軒の主婦であったから、わたしにとって田島ひろさん、堀内きみさん、母のぶは誰よりも身近で誰よりも頼りがいのある家族同様の人であった。

 この頃は日本の高度経済成長が始まる前だったので、田畑の仕事はほとんどが手仕事だった。しかし、次第に性能の良い道具が出てきた。「振りまんが」「カルチペーター」「動力脱穀機」「手押し噴霧器」などの出現はわたし達に希望を与えてくれた。殺虫剤ホリドールの効果は抜群で、「いい薬が出来たもんだ」と喜び合ったが、時々頭が痛くなった。わたしが中学生の頃は体力もつき、親戚の子供たちは男ばかり8人いたので、相当の仕事をするようになった。まだ金の余裕はなく、高校の学生服は叔父のお古を裏返して着て行ったが、使い古しのパンツをもらってはく、といった極貧状態ではなくなった。

 この頃から昭和46年の直次郎の死までは母にとっては幸福な時代だった。苦しいなりに生活は安定したし、子どもの教育も自分なりに満足できる結果をだした。新婚旅行どころでなかった二人が四国へ旅行したのもこの頃だった。直次郎は正直でまっすぐな人だったので「仏の直次郎」などとも呼ばれていたが、職場で様々な苦労があった。母親のつるじと良く似た性格だったようだ。

 伸はラジオ屋をはじめ、いくつかの職業を転々とした後、新しく開局した放送局(信越放送)に就職した。結婚して婿養子になり、飯田に住んだが、後に長野に帰り、勤めをやめて小さな広告会社を興した。屋代中学校中退という履歴が昇進の邪魔をしたのだが、自分の会社は実力が物を言った。それからの叔父の人生は最良だった。私はこの叔父の影響を最も強く受け現在があると思っている。叔父が生きていれば私の最も頼りになる相談相手だったろう。
 
 弟とわたしは大学を卒業し、就職・結婚をして、小諸と仙台で暮らすようになった。子どもが生まれ、小諸に家を建てはじめた時、孫と遊ぶのを何よりの楽しみにしていた直次郎が心臓発作のため上山田の旅館で亡くなった。昭和46年3月、誰も予想しないことだった。母がメニエル氏病になり、動けなくなったのはこの頃である。

 母は立ち直ったが、このまま放っておくことは出来ないと思い転任希望を出した。だが、わたしが組合活動やサークル活動をしていることによる人事差別のため、9年間転任することは出来なかった。最後は、佐久出身の組合の専従活動家で、地元に戻りたいといっていた教員(現:小諸高原美術館、小山敬三美術館館長)と直接交渉して互いの転任希望を確かめたうえ、校長に二人の交換人事を提示して転任した。

 私たちが川中島に戻ってきたのもつかの間の昭和53年、今度は弟の和(かのお)が突然亡くなった。子どもの頃から体が弱く喘息持ちだったが、次第に丈夫になり、高校、大学を卒業し、小平市の保育園に就職して、はつらつと仕事をしていたが、喘息から来る心臓発作のため、アパートで急死した。自分で救急車を呼んだのだが、到着した時には心臓が止まっていたと説明された。度重なって起きた二人の急死に、母の嘆きは深かった。

 その後間もなく川中島の家を新築し、母の住む部屋を離れ風につくり、そこで日常を過ごすようになった。わたし達夫婦が勤めに出ている間は山手樹一郎、源氏鶏太、吉川英治、松本清張、エラリー・クイーン、アガサ・クリスティー、吉屋信子、海音寺潮五郎、藤沢周平、池波正太郎など数百冊を読み、近くの友達・仲間に貸したり借りたりするのを何よりの楽しみにしていた。また、保育園に通っていた孫の世話をしたり、近所の友人とおしゃべりをする毎日だった。わずかの畑を耕すことも楽しみにしていたが、次第に年を取り、メニエル氏病が再発してからは本が読めなくなり、体も動かなくなってきた。

 母は自分ではスポーツをやらなかったが、見るのは好きで、プロ野球や大相撲、ラグビー、マラソンは欠かさず見ていた。プロ野球は近くの西友が大安売りをするので「西武ライオンズ」を応援し、学生スポーツは直次郎が早稲田の高等学院を出ていたので、すべて、早稲田を応援した。だが、晩年になってからはスポーツを見なくなり、それまであまり見なかった水戸黄門・暴れん坊将軍などの時代劇を見るようになった。

 やがて、これもやめてしまい、毎日廊下に椅子を出してぼんやりと庭を眺める毎日が続いた。何かすることがないかと思い「絵でも描いて見ないか」と誘ってみたが、その気はなかった。妻が機織をしていたので「糸とりを手伝ってくれないか」と聞いた時だけは嬉しそうな顔をして手伝って「明日はないのかいさ?」と催促したそうだ。機の仕事が終わってからはまた、以前のように廊下に座って庭を見る毎日が戻ってきた。それでも家の近くを欠かさず散歩するのが楽しみで、行き会った友達と長話をすることもたびたびだった。

 最晩年になり、体が動かなくなると自分の書いた日記や手紙を次々に燃した。貴重な資料だと思い「取っておいたほうがいいんじゃない?」と勧めたが受け付けなかった。手押し車での散歩が困難になる頃、家の中で転倒し頭を打った。その時は入院しなくて回復したが、もう一度転倒したときは脳内に出血をして手術が必要になり、篠ノ井病院で手術をした。その後、自宅で一年数ヶ月すごした後、介護施設コスモスに入所し一年数ヶ月して亡くなった。この間のことは以前このホームページに書いたとおりである。
 
 頭を打って入院した時は最悪の状態だったが、家に帰ると驚くほど回復した。週2日ほどデイケアのお世話になり、ショートスィティーの利用と並行しながら家庭での介護を続けた。施設の皆さんの介護はとても熱心に思え、この状態が続くことを望んだが、そのうちに夜ベッドから降りて上がれなくなることが続いた。このまま冬を迎えることに不安を感じ介護施設に入所してもらうことにした。入所に際し「ここは入所者の自立を促すための施設ですから、3ヶ月をめどに退所していただくことを原則としています。」といわれた。

 次の施設を探さなければならないのかと思ったが、幸いその必要もなく1年以上入所できた。これは入所者の側から見ると実にありがたいことであった。昨年末施設の方と話した時も「家に帰っても全介護をしなければならないので、長期間の介護は限界がある」といったところ「もうしばらくここで様子を見ましょう」と話され、ほっとすると同時に、ここを出たときの準備が必要だと思った。数日の介護なら可能だが、あまり長い期間の介護は不可能だと思ったからである。


 死亡が確認されて葬儀屋さんに連絡すると、あっという間に担当者がやってきた。死亡診断書、火葬場の許可など、以前私たちがやったことをすべてやってくれた。カバンの中には新聞へ掲載する死亡のお知らせ原稿まであって、そこに書き込むと新聞社へ連絡してくれた。夕方になると、玄関に飾る燈明を持ってきて飾り、灯をともした。明るい電球が入っているため、隣家の壁や窓が照らされるのが気になった。新聞に母の死亡が掲載されたのは葬儀当日であった。喪主の肩書きは空欄にした。肩書きを見て来てもらいたくなかったからだ。

 寺に行き日程の打ち合わせや費用などを聞くと、値段は決まっているらしく「二人の場合は住職が○十万円、おつきの僧○万円ですが、3人以上になると他の寺にたのむので、僧一人当たり10万円増えます」と答えてくれた。事務的でドライだと感じたが、気楽ではあった。葬儀費用はどこも同じなのだろうか?それとも協定があるのだろうか?あるいは人を見て決めるのか?
 
 通夜には近所の方と親戚が来てくれた。以前は通夜には何も持たずに行ったものだが、最近はいくらか包むようになった。これは葬儀がマニアル化し、どこかのマニアルで「通夜にはこのくらい包むものだ」と書かれたものが定着したためだろう。和尚さんには通夜のお経をあげてもらった。その後説教があった。内容は豊富だったが、私は一番言いたい内容が良く理解できなかったのが残念だった。分かったことは浄土真宗では「息を引き取る同時に仏になるので、旅支度などは不必要である」ということだった。これは道理ある解釈で納得できた。だが、そうなると七日法要とか四十九日法要の意味も違ってくるから、やる必要がないのだろうか?などという疑問もわいたが、あとでうかがおうと思っている。

 葬儀のなかに孫の「お別れの言葉」を入れることにした。下の娘が鼻をすすりながら朗読した。
 私が保育園のとき、おばあちゃんは遠くまでいつも迎えにきてくれて、二人でおしゃべりをしながら帰りました。小学生のころ、私が「友達の家ではおやつが出る」と話したら、たこ焼きを買ってきてくれたり、オムライスを作ってくれました。親に叱られた時には私を抱きしめて「この子は悪い子じゃないんだから」と言って私を守ってくれたことがありました
 私は末っ子なので家族の中では一番おばあちゃんとすごした時間が少ないですが、おばあちゃんとの思い出は紙に書ききれないほどあります。
 ついに、お別れのときが来てしまいました。苦労したんだから安らかにお眠り下さい。  由子

  お斎には母が日ごろ仲良くしていただいた皆さんと近しい親戚についてもらった。
  伸と結婚した叔母の鈴木信子さんと陶芸をやっている浦田征子さんが心にしみる思い出話をしてくれた。
 上の娘も思い出を話した。

 今思い出せば、幼い頃、私は心淋しい子どもだったように思います。両親が多忙だったため、行事など祖母に来てもらうことがありました。幼稚園の卒園式には、祖母と2人で映っている写真が、今でも残っています。
 小学校低学年の頃、私が小諸の自宅で、具合が悪くて学校を休んでいたときのことです。隣の部屋のストーブが、不完全燃焼を起こし、家中が黒煙に包まれました。幸いストーブの火を消すことができたのですが、部屋に広がった煙はすさまじく、後始末に困った私は、祖母に電話をかけました。その後、祖母が長野から小諸の家に駆けつけてくれ、全て後かたづけをしてくれました。当の私は、両親に叱られずにすみ、ほっとしていました。
 また、私は2度にわたり、海外へ赴任することがありました。任期は2年、3年と短くはありませんでした。海外へ赴任する当日、祖母は必ず家の前に出てきて、見送ってくれるのでした。私には、それが一番辛い別れでした。今でも、その時の祖母の姿が忘れられません。
 私は、祖母に何もしてあげられませんでしたが、祖母にかけてもらった愛情を忘れずこれからも生きていこうと思います。                               立子

 最後にお手伝いいただいた皆さんに「ご苦労会」(おてふき)を差し上げて終わりにした。

 いま、葬儀が終わってほっとしている。
 母との接し方については悔やむことは多々あるが、今更どうしようもないので、すべて切り捨てることにする。母とかかわりのあった皆さんには心から感謝している。皆さんの心の中にいる母を時々思い出していただければこんな嬉しいことはない。本当にありがとうございました。

 驚いたのは、その後毎日のようにダイレクトメールがとどき、仏壇屋さん、石屋の石塔の案内、通販の贈り物カタログ、宴席案内、法事の会場、果ては遺産相続の相談ご用命などひっきりなしである。ダイレクトメールだけでなく、電話をよこしたり、訪問して「お参りさせてくれ」と言った業者もいたが、すべてお断りした。
 生まれた時から墓場まで、現在はすべて商品化された世の中になってしまった。楽ではあるが、これでいいのだろうか。複雑な気持ちである。


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