ひとミュージアムその後ー退職教職員の会ー 2009年12月12日

 退職教職員の会で「ひとミュージアムその後」のタイトルで意見発表をした。
会場は長野県教育会館3階で参加者は20人ぐらいだった。

 この会では以前美術館が出来た頃、話をしたので、今回は「その後」ということで話をさせてもらった。今回は「人との出会いの不思議さと面白さ」についてを中心に話した。

1、美術館の名前をつけたとき頭に「ひとミュージアム」とつけたのは、「ひと」との出会いやふれあいを大切にしたいという思いがあったからだ。今日は人とのふれあいを中心に話したい。
2、藤井醇さんと仲間たち
  4年前のある日、藤井さんと奥さんがふらりとやってきて見学したのがきっかけになっ て、お付き合いが始まった。最初は「子育て講座」の講師として「昆虫講座」を行った。こ のとき、藤井さんが言った言葉は印象的だった。「わたしの講座の特徴は何も教えないことです」といったので、わたしは大笑いしたが、みんなは驚いた。
 不安もあったが長野博物館の池の縁に行くと、子供たちは夢中になって虫を探したり、水に入って遊び始めた。藤井さんは黙ってみているだけだったが、子どもは虫を捕まえると藤井さんのところに持ってきて「この虫何ていうの?」「何食べてるの?」と質問する。すると藤井さんが答える。名前を聞かれると、その名前の由来や虫の生態を話すので子どもたちはおおいに喜んだ。
 こんなことがあり、彼と仲良くなると毎週のようにやってきては仕事を手伝ってくれたり、相談に乗ってくれるようになった。
 藤井さんは一度信用した人にはとことんお付き合いするのが特徴で、自宅に呼んで朝まで飲み明かしたり、呼ばれればどこにまでも出かけていく。だから、友人はやたらと多い。藤井さんの昆虫写真展にはその友人が、長野・松本・富士見・原村・東京・八王子・京都、、、から続々とやってきた。
 藤井さんのもう一つの特徴は好奇心が旺盛でなんにでも挑戦し、物にしてしまうことである。
パソコンで絵を描いたり、ハムを作ったり、製本をしたり何でも器用にやってしまう。美術館では藤井さんの「ハム作り教室」を開き好評を博した。
 こういう人と出会えることは大きな喜びである。

3、「たあくらたあ」の仲間から学んだこと
 「たあくらたあ」という雑誌がある。この仲間は時々美術館で編集会議を開いている。わたしはカウンターでその様子を見ているのだが、話がとても面白い。
 集まってくるメンバーが専門家だから自分の考えがはっきりしており、根源的なところから発想するのが特徴である。また、メンバーが実践家であることから、話が実践的であることも大きな特徴である。例えば、長野市で行われた「国民保護法の実施予備行動」についての学習も「自分達が参加し取材する」という前提で話し合われた。県庁へ行って取材して、目的、想定場面、一般への公開の有無、地元参加の有無、強制参加かどうかなどを調べてきてみんなで検討していた。
 法人改革や天下り禁止についても「学校給食センターの職員や所長はどのように選ばれているのか」「公民館長にはどうして学校の校長先生が多いのか」などを調べ「誰が選ぶのか、公募しているか」などを議論した。
 今回の長野市長選で高野登さんを推して中心になって活動したのも彼らであった。
 今の仕事をしていると、今までの世界の中では知りえなかった人と知りあえることが大きな喜びである。
 わたしはこの仲間の人から実に多くのことを学んでいる。

4、もう会えない人
 上野弘道さん  2年ほど前にここに見えた上野弘道さんはバルラッハの日本で最初の紹介者だった。ただの紹介者というより、研究者であり探求者であったというほうが適当かもしれない。彼には『エルンスト・バルラッハー忘れられた表現主義の彫刻家ー』(1989)『ー木彫の詩人ーエルンスト・バルラッハ』(1993)という2冊の著書がある。すでに両書を読んでいたので、彼の訪問はとても嬉しかった。
 やってきたとき、わたしはそんなことは知らないから、通り一遍の説明をしてから、一緒にお茶を飲んだ。飲みながら話すうちに話が弾み、バルラッハの研究者であることがわかって更に話が盛りあがった。バルラッハからコルヴィッツへ、若桑みどりさんの話から上野誠まで実に楽しい時間を過ごすことが出来た。上野さんは現在千葉大学の先生をしており日展の会員(評議員)だと言う。
 だが、話している顔色が悪かったし声に張りがなかったので聞いてみると「体調があまりよくない」と言うので、疲れているのかと思い、「気をつけてお帰り下さい」といって別れた。帰って間もなく
研究室で作成したパンフレットが送られてきた。読んでみると、大学生が書いたコルヴィッツ展の感想だった。翌年にはバルラッハの大規模な展覧会(2006・4・12〜5・28、東京芸術大学)があったので「上野さんはどうしているかな、もしかしたら会場で会えるかもしれない」と思い、出かけたのだが、そこではお会いできなかった。それ以来気にはなっていたが、交流のないままになっていた。
後で知ったのだが、上野さんは2007年3月で大学を定年退職されていたばかりでなく、同年12月には亡くなっていた。
 最近、鹿山邦夫展を行った際、信州大学を定年退職された関信一さんが来館され、鹿山さんを交えて話しているうち,鹿山さんが「わたし達は教育大学で同じ教室だった。人数が少なかったので、お互いによく覚えている。上野弘道も同じ教室だった」と話したので大変驚いた。生きておいでなら3人の再会もあったのにと残念である。

 上野さんのほかにも「ひとぶっくすNO1」を書いた稲葉恵一さん、当館を建てる際、地鎮祭の祝詞をつくり詠んでくれたり、「宗教者の会」で憲法20条の重要性を力説してくれた片岡稚夫さんなどもう会えないが、思いでは心に残っている。


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