四国旅行  20100208

       22()から6()まで四国へ旅行してきた。

       主な日程は次のとおり

     

       22()  長野発  倉敷着 大原美術館他  アイビースクエアー泊

       23()  倉敷発  松山着 愛媛美術館他  つかさビューホテル泊

       24()  松山発  鳴門着 徳島美術館他  うずの宿 鯛丸 泊

       25()  鳴門発   東洋町着 東洋町役場他  民宿「南風」 泊

       26()  東洋町発 長野着 高知美術館他

             今回の旅行の特徴は 美術館見学と東洋町見学だった。

       1、倉敷「大原美術館」

   倉敷は今までに数回訪問している。大原美術館はそのつど行っているから、中の絵画や彫刻などは大方知っている。しかし、今回も見たくなり、民芸館を中心にしっかりと見てきた。今までは自家用車で来たが、今回は新幹線で来たのが特徴だ。

   駅を降りて大原美術館まで歩いた。たいした距離ではないが、靴が新しかったので、右の小指が痛くなった。大原美術館は何回も来ているので、先ずは「倉敷民藝館」を見ようと思ったが、あいにく休館日だった。隣の「日本郷土玩具館」と併設されているおもちゃ屋さんに入り眺めてから大原美術館に入った。

前回訪問した時と部屋の配置が変わっていたので、作品は覚えているのだが、部屋が違っており、はじめてきたような気がした。ピカソやクールベの作品は良く覚えていたし、モネの睡蓮も懐かしかったが、ムンクの「マドンナ」藤島武ニの「耕到天」熊谷守一の「陽の死」やオノサトトシノブ、菅井卓の作品が見当たらなかった。エル・グレコの「受胎告知」が一室を占めていたので、この作品がこの美術館の目玉なのかなと思った。私は他の作品のほうが好きなので、やや違和感を持った。

本館を観たら疲れたので、来がけに印象に残っていた喫茶店でお茶をのんだ。喫茶店には「エル・グレコ」という名前がついていた。この名前でかなりの客が入るだろう。味はまあまあで特別うまいとも思わなかったが、若い客が次から次と入ってきた。

大原美術館内の民芸館は浜田庄司、バーナード・リーチ、富本憲吉、河井寛次郎がそれぞれ一室を占め、棟方志功と芹沢_介の室もあった。前回見た「釈迦八大弟子像」と「大和しうるわし」が見当たらなかったのは残念だった。焼き物は好きだが、河井寛次郎は私の肌にあわない。焼き物では富本憲吉が特に好きだ。実に美しい。バーナード・リーチや浜田庄司の作品も大好きだ。リーチの作品の中に黄色い焼付けのものが何点かあった。これと同じ色のポットが家にある。何年か前、松本の民芸店でリーチの孫が作品展をやった折に買い求めたものだ。気に入ったポットがそこになかったのでイギリスへ帰って作って送ってもらった。「おじいさんと同じ窯で焼いている」と言っていたからおそらく同じ窯で焼いたものだろう。今夜泊るアイビースクエアーは前回も泊り、とても良かったので値段は高かったが、また選んだホテルだ。夕食はここのグリルで食べた。団体客はいたが、個人客は私たちだけのようだった。味も良かったが値段も良かった。

翌日はすぐ近くのレンタカー屋で予約してあった車を借りて四国へ向かった。     

 2、「丸亀市猪熊弦一郎現代美術館」(MIMOCA)

  倉敷を出発してすぐ、瀬戸内海にかかっている橋を渡り、丸亀市の「猪熊弦一郎美術館」を訪れた。彼は抽象画を描いているが、その色彩の美しさは抜群で、かねてから訪問したいと思っていた美術館である。もう20年近く前になるが、松代の長谷川健三先生を訪問し、児童画について教えを乞うた時、玄関に猪熊弦一郎の版画がかけてあった。「いい版画ですね」と言ったら「猪熊弦一郎の版画です。とても気に入っています」と答えられたのを思い出す。

建物は予想したよりはるかに大きくて、モダンであった。(設計:谷口吉生)
中に入るとこれまた実にしゃれたつくりで、贅沢な材料をつかっていた。他の人の企画展もあったが、猪熊の作品を見たかったので「猪熊弦一郎展 色いろいろ」を見た。メインの部屋には1980年代の抽象作品が30点ほど展示されていた。他に人がいなかったので真ん中に腰を下ろし、周りを見回すと、日本の美術館にいるのだろうかという思いがしたほどである。飾られている間隔もゆったりとして、疲れを感じさせなかった。

ゲートプラザ写真
    1980年代作品     1980年代作品    初期作品    建物 入口付近


仕切りの向うには、
1940年代の初期作品があり、こちらは具象画であった。この作品は色彩も形もマチスの絵を思わせたので、館員に聞いて見ると、果たして「マチスを尊敬していて、影響がある」との事だった。
期待した以上の美術館で大変満足して次に向かった。此れだけ大きな美術館で働いている人もたくさんいたが、入場者はそれほどでもない。見学する側とするととても嬉しいのだが、一方では「これで運営が出来るのだろうか」心配にもなった。丸亀市立だから何とかなるのだろうか。

3、愛媛県美術館で柳瀬正夢の諷刺画をみる

 愛媛県出身の画家で興味があったのは柳瀬正夢である。以前、柳瀬の回顧展があり、そのカタログを買ってあったので調べてみたら愛媛県美術館が中心になって企画していたことが分かった。せっかくいくのだから柳瀬の作品を見せてもらおうと思い、学芸員と連絡を取ったところ、研究のためと言うことで見ることができることになった。

 「柳瀬の作品はたくさん所蔵しているが、何を見たいのか」と聞かれたので、諷刺画を見せてもらうことにした。30点ほど所蔵しているとのことだった。何といっても柳瀬の本領はプロレタリア画家の一員としてポスターや漫画、諷刺画などを描いたところにあるのだから、それを観たかった。

 この美術館は不思議なことに駐車場がない。周りをぐるぐると回って聞いてみると、県庁の駐車場へ入れるのだと言う。そのため、約束の時刻より少し遅れて到着した。学芸員の箱田千穂さんに案内されて地下の収蔵庫に入り、柳瀬の作品をじっくりと見ることができたのだが、私はこのときはじめて美術館の収蔵庫に入った。入り口には大きな金属の扉(3m×2m)があり、鍵がかかっている。時々テレビで見る銀行の金庫のようである。金庫の鍵を開けるようにダイヤルを左右に何回かまわし、鍵を入れて重い扉を開けると中は天井から壁面、床まですべて木のフローリング貼りになっていた。

作品は中の戸棚にしまってあり、ここから取り出して机まで運び、箱田さんが一枚ずつ蔽ってある紙から出してくれるのを待って観た。カタログでは5cm×5cmぐらいの大きさだったが、本物は画面で30cm×50cmぐらいだった。画面に登場する人物は当時の閣僚や代議士でいずれも誇張されており、諷刺の意味は理解できた。そのうちに「世界労働者会議」を諷刺した版画に出くわした。また、社会大衆党を諷刺した絵も出てきた。詳しく調べないとわからないが、おそらくこれらの諷刺画は当時の共産党が社民党を攻撃したことの結果だと思われる。統一の方向でなく孤立への道を進んでいったことがこれらの作品によってわかるように思えた。 

4、松山市立「子規記念博物館」

        私は俳句や短歌をたしなまないし読むこともあまりない。だから、子規についても知らないことだらけだし、その業績もあまり理解していない。だが、彼の「歌よみに与ふる書」を読んだ時の衝撃と感動は忘れられない。それまでの伝統の中で形骸化した俳句や短歌を新たな視点から見直し、評価しなおしたことは大変なことだったと思うのだ。この著書を読んだ時の感動は、福沢諭吉の「福翁自伝」の中の「身分制度は親の敵に候」という部分や神棚を壊し、罰が当たるか試した部分を読んだ時の衝撃と同じだったような気がする。そんなことがあり、松山に行ったら子規記念博物館を見学しようと思っていた。

博物館は4階建の大きな建物で、中ではいろんな催しも行われていた。最近は『坂の上の雲』の影響で見学者が多いだけでなく、見学者の関心も俳句や短歌だけでなく「子規と野球」であったり「日清戦争の従軍記者子規」であったりするらしい。だが、写真と解説を読みながらその人生を辿ってみると、彼がその短い人生をきわめて有効に生きていたことが分かった。

   子規の生い立ちから死までを追いながら壁面の写真や資料を見ていたら、あっという間に時間がすぎて、よくよく疲れてしまった。展示場に置いてあったパンフレット(NO1〜NO8)を貰ってきたので後でじっくりと読みたいと思っている。展示物では辞世の句を書いたもの(コピー)が飾ってあったが、死の数時間前にあのような書を書けたことは私には想像できないことであった。

5、砥部焼きの窯元を訪ねる

 四国に行ったら砥部焼きを見たいと思っていた。これまた二十年ほど前になるが、小諸の「べにや」で砥部焼きの素晴らしいコーヒーカップを見つけたことがあるからである。その時は買う金を持っていなかったので、一週間たっていってみたらすでに売れてしまっていた。それ以来、「いつか砥部を訪ねたいものだ」と言う思いをもち続けていた。そこで今回の砥部行きとなった。

 行く前にインターネットで砥部焼きを検索してみると、私がイメージしていた焼き物と違い、それほど大したものではないように思えるのである。そこで窯元を一軒ずつ調べてみたら、「永立寺焼」に出くわした。この窯は伝統的な砥部焼きとは違うようだが、なかなか魅力的だった。

 松山で午後4時になっていたので、時間が足りないとは思ったが、三十分あればいけると聞いたので車を飛ばした。村の入り口にあった「「陶芸館」に入ったら、砥部のすべての窯元のスペースが2メートル間隔で並んで、そこに磁器が並んでいた。磁器と言っても清水焼とはずいぶん違い、厚手でぼってりとし、日常使う素朴な雑器である。ここでも私は永立寺焼に魅かれた。妻は小さな丼が気に入ったのでそれをたのんでいた。すでに時間は五時をすぎていたので、窯元へいけるかどうか心配であったが、幸い永立寺焼はすぐ近くだったので訪問した。

 うす暗い中を駐車場に車を置き、仕事場で仕事をしている女性に声をかけると、中から出てきて私たちを迎え入れてくれた。ごく一部の窯元を例外として、焼き物の窯はごく粗末な掘っ立て小屋のような建物で仕事をしている。ここもにわか作りのようなところで仕事をし、展示していた。先ほどの女性が「お客さんです」と声をかけたので若い男性が出てきた。彼がこの窯の二代目らしい。展示してあった抹茶茶碗の説明をしてくれた。

6、徳島県立近代美術館でコルヴィッツをみる

 20年ほどまえになるが、有明美術館で「上野誠、ケーテ・コルヴィッツ展」(1987)を開いたことがある。その期間中美術館を訪問したら、ちょうどコルヴィッツを扱っている画廊の主人が来ていて「珍しいものをお見せしたい」といってタトウから何枚かの版画を出して見せてくれた。みると、ケーテ・コルヴィッツの「戦争シリーズ」全7点ではないか。1枚ずつしっかりと観たが、刷りもよく見事なものであった。このシリーズは私が最も好きな作品なので、出来うるならば買いたいのだが、とても買えるような値段でないことはわかっていた。それでも、「これは売り物なのですか」と聞いてみると「いや、もう行く先は決まっております。近日中に徳島に美術館がオープンしますが、そこに納める作品なので、納める前にお見せしようと思い持ってまいりました」とのことだった。作品はすばらしかった。浅野さんが取り出す作品を、そこにいた数人はみな感激して見入ったのだった。

 この美術館でも愛媛と同様に地下の収蔵庫に入って学芸員の取り出してくれた作品を一枚ずつ見た。以前見た記憶が少しずつよみがえってきた。注目したのは第4葉の『寡婦2』である。この作品は一人の母親が仰向けに倒れており、その胸の上に幼児が横たわっている構図である。母親は夫の死の知らせを聞いて気絶したのかもしれない。実は、この作品は当初は腰から下が描かれておらず、上半身だけであったが、後から下半身を描き入れて最終的に完成させたことが分かっている。後からつけ加えるとしたら別の版木に彫ってから継ぎ足して一枚にして摺るのだろう。それならば継ぎ目がどこかに見えるのではないかと思い、眼を皿のようにしてみたところ、予想通りかすかに継ぎ目の線が見えるではないか。「やっぱり見えたぞ」と私は満足した。といっても、絵の価値とは何の関係もなく、どうってことはないのだが、それでもどこか嬉しい思いがした。

    http://hito-art.jp/ にホームページが移動しましたのでお気に入りに再登録をお願いします

BACK NEXT 通信一覧