骨を折る   2010年4月17日

 15日の朝足の骨にひびを入れてしまった。膝のお皿のすみがわずかだが割れたのだ。早朝、車から降りるとき足首をコードに引っかけて膝から下に落ち、右膝をコンクリートにぶつけてしまった。時間がたつにつれて痛さが増してきたので、心配になって野整形外科にいって診察してもらった。以前ならこれくらいのことで医者には行かないのだが、人間ドッグで「骨粗鬆症になりかけている」と言われていたので心配になったのだ。レントゲンを撮ってみたら半月板の下に黒い線がはしっていた。「これかな」と思っていたら、案の定それがひびだった。こんなことで骨が折れるとは我ながら情けないことである。私の骨は古くなったプラスチックのようになってしまったのだ。

 折れたといってもここまで歩けたのだからポキッと折れたのとは違いサポーターで固定し湿布薬をつけただけで何とかなりそうである。医者からは「膝を90度以上曲げると骨がじん帯に引っ張られて割れ目が広がり折れてしまう心配があるから、伸ばしたままにすること。転んでぶつけるとわけなく折れてしまうから気をつけること」と言われて帰ってきた。大したことがなかったとは言うものの、痛くてまともに歩くことはできない。こうもり傘を2本両手に持ってつきながらそろそろと歩く始末である。
 翌日になるといくらか良くなり、びっこを引きながらなんとか歩けるようになった。おかげで、いろんな会議は欠席である。

 はるか以前、お盆になると菩提寺の和尚さんが毎年おお経をあげに来た。この和尚は私の知っている他の和尚とちがい、ざっくばらんな話をした。まだ高校生だった私は彼にいろいろ質問したり議論を挑んだ。「地獄や極楽は本当にあるのか。あなたはあると思っているのか」「今の仏教は葬式や法事をするためにあるのではないか。多くの人は仏教など信じていない。」などといっても彼はいやな顔をせずに自分の考えを話してくれた。諭すというより熱くなって若い私と論争した。具体的な内容は覚えていないが、かなり真剣になって論じ合ったことは間違いない。大方忘れてしまった論争の中で「幸福について」語ったことを今でも鮮明に覚えている。「幸福とは幸福を意識しない時のことだ」と彼は言った。「幸福を意識しないのが幸福だ、などおかしいではないか」と反論したのだが、この言葉は妙に心に引っ掛かり、五十数年が経った今でも時々思い出す。

 足の骨を痛めた時も、この言葉が自然に浮かんできた。健康な時はそのことを意識しないが、けがをしたり病気になると「つらいなあ」と思い、痛くなかった時、苦しくなかった時の幸福を思うのだ。足を痛め、今は亡き康楽寺住職のことを懐かしく思いだした。


BACK NEXT 通信一覧