本当の自分とは     2010年5月9日

 作曲家、小倉朗の自伝『北風と太陽』の最後に、彼が自分の作曲した楽譜を火に燃やす場面があった。


 音楽は音楽に語らせればいいのである。しかし、それでももし書き加えることがあるとすれば、ただ一つ。後のなって、第一歩から戦後このあたりまでの「作品」の殆ど、たまたま出版されたものを除いて、庭に持ち出して焼き捨ててしまったということぐらいである。量はかなりあった。五線紙の束は厚く、焼くには手間がかかった。熱を避けて、長い棒きれを見つけてきてほぐしながら焼いた。が、じりじりと額から汗が流れた。ほぐれていく五線紙の譜柄が、焔の中にはっきりと浮かんでは焔につつまれていった。どのページにも思い出があった。母が嬉しそうに聞いた「ヴァイオリン・ソナタ」、召集の前日まで夜を徹して仕上げた「ピアノ・コンチェルト」、母と共にした山梨で作った「ヴァリエーションとフーガ」、そして母の看病をしながら、暇を見ては書き始めた「シンフォニー」―。
 すると、以前もやはりそうして焼いているとき、母のいった言葉と、理解に苦しむといったその日差しをふと思い出した。
「頭を痛めて書いたものを、何も焼くことはないでしょう、、、、」
                                (『北風と太陽』 P235 新潮社)
 
 小倉はそれまで苦心して作曲した曲をなぜ焼いてしまったのだろうか。彼の母ではないが「何も焼くことはない」と思うのだ.。だが、同じ行動をした人が他にもいた事を思い出した。
 私が尊敬する彫刻家:高田博厚がフランスから日本に帰国する際に自分の作った作品をすべて壊してしまったのだ。
 瀬戸際に立って、私は長かったフランス生活を思った。「俺はいったいなにをした?」「残せる作品は一つもない、、、、絶えず仕事をしたと思いつつ、自信は持てなかった」。―マイヨルに会った時にも「私も彫刻をやります」とはとても言えなかった。ほとんど三十年の間、一度シニャックに命令されてアンデパンダン展に出し、デスピオと絵のセリアにうながされて、チュイルリー展に出した以外、「世間」とは縁がなかった。―こうして、「自分が生まれた国」に、体一つで戻る。この時に、手元にある十数点の作品―それまでに二百点ばかりの作品を壊していたが―を全部崩してしまった。
                           (『分水嶺』 P367 高田博厚 岩波書店)

 これは小倉の楽譜を焼いたことと同じだろう。
 陶器の作家が気に入らない作品を割ってしまうのも、これと似ているように思う。造形作家に限らない。小説家が以前に書いた小説を絶版にすることもあるし、絵描きが以前の絵を塗りつぶすこともある。だが、すべての作品を壊すことはまずない。

 自分が今まで一生懸命制作してきた作品をすべて壊してしまうのはよほどの決意がなければできないはずだ。だが、彼はそうしたのである。いったい彼はどのような決意をしたのだろうか。

 それは、今までの自分と決別し、新しい自分になるという強い決意だろう。このような決意をするということは、ただ単に今までの自分を否定するだけでは到底できない。そこには新しい自分への見通しがあるからこそできるのに違いない。
 小倉朗はそれまで古典派の音楽にのめりこみ、作品もその影響(たとえばブラームス)を深く受けていたという。ある人は彼を「オグラ−ムス」と言っていたそうだ。その彼がそこから新しい方向を見出していたからこそ古い自分を捨てることができたのだ。

 ここまで書いてきて、はじめ自分が書きたかったことと全然違った方向に進んできてしまったことに気が付いた。書きたかったのは題名の通り「本当の自分とは何か」ということなのだ。

 以前、七二会(なにあい)小学校に勤めていた時、同僚にHさんがいた。彼は美術教師で県下でも名前が知れていた。あれは小諸の小山敬三美術館がオープンして間もなくのことだったと思うが、かれがそこを訪れて私にその話をした。
「小山敬三美術館に行ってきたが、君は行ったことがあるか」
「小諸にいたので何回かありますよ」
「彼の初期の絵はすばらしい。フランスで描いた作品は今の小山敬三の絵と全然違う。今の物はくだらないが、初期の作品は実に魅力的だ。」
「初期のものは美しいけれど、印象派の画家の作品と似ていますね。」
「そういうところもあるが、今の小山敬三は何枚描いても同じ作品のコピーじゃないか。何枚描いてもワンパターンでマンネリもいいところだ。だが、初期のものを見て彼を見なおしたよ。留学中の画風を続けていたら今頃すごい画家になっていたはずだ。惜しいことをしたものだ。」その時のHさんの言葉が妙に引っ掛かって頭に残っていた。

   


 だが、小山敬三のフランス時代の絵はいずれも印象派のフランスの誰かの作品と似ており、見分けがつかないものであった。色彩の美しさやしっかりした構図ではあるが、その作品の前に立っても小山敬三は見えてこない。これと比べて現在の作品を見るとどれを見ても小山敬三である。好き嫌いはあるが、現在の画風を確立した時に本当の小山敬三が生まれたのだ。

 加藤周一にこんな言葉があることに気がついた。

 
 20世紀に、というよりも第2次大戦後に、芸術の、殊に絵画の、まことに未熟な理論が流行するようになりました。その典型の一つが、「アクション・ペインティング」の理論です。古典を忘れ、伝統を離れる。無念無想、自由自在に腕を振りまわす。そこに絵画的表現の最大の自由がある―簡単に言うと、そういうことでしょうが、こういう考え方はあまりに非現実的なので、それを言い出した当人さえも、決してその通りに実行したわけではなかった。ジャクソン・ポロックは、抽象的表現主義の実に独創的で迫力のある画面を作りました。それは彼が天才的な画家だったからで彼の理論が良かったからではありません。ポロックが天才だったのは、理論の故にではなく、理論にも拘わらずです。何も今までの絵画に縛られないで、絵の具を付けた筆を持って、自由に腕を振り廻すとしたら、どういうふうに腕が動くでしょうか。自由に動くというのは言葉の誤用です。人間の手は自由に動かない。腕の運動には方や肘の関節、運動神経や筋肉の生理解剖学的な、誰にも共通の条件がありますから、誰が腕を振り廻しても似たような結果になる。病人でない限り、腕は同じように動きます。無我夢中で、無念無想で何かすると、自由だという考えは、間違っています。人間のひとりひとりがちがうのは、解剖学的構造と生理的機能ではなくて、人間の考えである。だから考えない人間、つまり無念無想の人間に個性などありようがない。個性がなければ、新しい美術などできるはずがないでしょう。


BACK NEXT 通信一覧