長野合唱団第46回定期演奏会   2010年5月23日

 昨夜(22日)県文(ホクト文化ホール)で長野合唱団第46回定期演奏会があった。この演奏会には毎年行っているが、今年は娘が伴奏をするというので2〜3人を誘い、出かけた。

 多くの演奏会に共通するのは、後半になるほど盛り上がってくることである。先日当館で行った坂千賀子さんの演奏会もそうだった。最初、スペインの歌をうたい、後半にフランスの曲を歌ったのだが、後半のほうが断然素晴らしかった。
 
 最初は演奏する側も緊張しているし、聴衆も緊張している。緊張と言えなくとも、受け身の姿勢である。ところが、歌っているうちに、のどの調子がなれてきてなめらかになり、聴衆の反応も伝わってくるので、しだいに乗ってくる。その歌手の気持ちが聴衆に伝わり、聴衆の反応も積極的になる。拍手の音も高くなり、表情が生き生きとし、体を動かしたり、時には声も出る。そうなると会場全体が一体になり、とてもいい雰囲気が醸し出されるのだ。

 昨夜の演奏も同じであった。第1部の最初は「We are the world」、続いて「さんぽ〜となりのトトロ」「世界に一つだけの花」「あの素晴らしい愛をもう一度」「川の流れのように」とくる。
どの曲もよくできた曲であるだけでなく、よく歌われるおなじみの曲である。それが美しく歌われた。おなじみの曲で悪くはないのだが、「We are the world」以外はやや物足りなかった。演奏会全体を振り返ると、後半のほうが盛り上がったように思う。

 それと同時に思ったのは「よく知られている曲の演奏は難しい」ということだった。よく知られている曲は何回も歌っているから、どうしてもマンネリになってしまう。「強く」「弱く」「なめらかに」「盛り上がる」などは今まで何回か歌っているので指揮者も歌い手もよく分かっている。そこで、指揮者がそれを指示し、それに従って歌っているだけでは、マンネリになりコピーになってしまうのだ。マンネリを脱しコピーでなく歌うとなると大変な工夫が必要になる。

 私の経験で言うと、授業をするとき今迄教えたことがない教材を初めて教えるときは緊張し、必死で教材研究をしてから授業に臨むが、同じ教材を再び教えるときは、以前教えた時の記憶があるから、それをもとにして授業を組み立てる。不思議なことに2回目の授業より初めての授業のほうがはるかにいい授業になるのである。手抜きをしているつもりはないのだがそうなのだ。だが、すべてがそうかというとそうではない。私はうまくいかないことが多かったが、なかには二回目、三回目と新しい授業を工夫し、より高い質の授業を作り出した教師がいた。赤坂里子さんの「やかれたさかな」などはその典型だ。だが、そこに至るには大変な努力が必要で、並みの研究ではとても無理だ。しかし、その授業は実にすばらしく、子供たちは新しい発見を次々にしていった。

 第1部後半は昨年と同じ花岡由裕さんが指揮した。彼の指揮について昨年の感想に詳しく書いたのでそれには触れないが、掌の動かし方に特徴があることには変わりなかった。

 昨年のブログの最後に書いたのだが、指揮のかたちはそれだけがあるのではなく「どのような曲を作りたいか」という曲のイメージが確固としてあるとき、それが指揮者の指先に現れるのだと思う。曲のイメージがはっきりしていればいるほど指揮者の指示ははっきりと歌い手に伝わり、歌声になる。

 以前、岩城宏之が面白いことを言っていた。「指揮で一番大切なのは手ではなく目だ。だから眼さえしっかりとしていれば腕を振らなくとも指揮はできる。反対に、指揮者が目隠しをして棒を振っても、音楽にはならない」というものだった。そしてN響のメンバーに腕を振らず眼だけで指揮をして見せた。たしかベートーヴェンの第五の冒頭部分だったが、N響メンバーは見事に演奏して見せた。更に彼は「優秀な指揮者が高校生のオーケストラを指揮するならば、それはつまらない指揮者がN響を指揮するより見事な音楽を生み出すことができる」と言った。誇張した部分はあるにしても、この中には音楽とは何か、指揮とは何かという問いに対する答えがあるように思う。

 第1部後半で一番よかったのは組曲「空に小鳥がいなくなった日」の最後の曲であった。この組曲には動物や鳥を描いたプラカードが登場したり、その仲間の妻が現れるなどユーモアたっぷりの歌であったが、そちらの面白さがあるため、歌のほうはいまいちのような気がした。だが、次に歌った曲はとてもよかった。1フレーズごとに各パートが丁寧に歌い、曲が作り上げられていた。指揮者の微妙な指先の動きが歌声に反映し次々に変化し、指揮者と歌い手とが曲のイメージを共有していたことがよくわかった。

 長野合唱団は県下における「うたごえ」関係では最高のレベルの合唱団であることは衆目の一致するところである。私はこの合唱団がカギ括弧なしで県下最高レベルの合唱団になってもらいたいと願っている。

 、、、、と、書いてみたが、はたしてそれでよいのか一瞬迷った。
 長野合唱団が素晴らしいのは団員も聴衆も平和を願い、庶民の幸せを願う思いを共有していることである。そのことが団員と聴衆を深く結びつけている。だが、私の知っている合唱コンクールや合唱祭などは「歌う側の思い」「聴く側の思い」がこの合唱団の演奏会とはかなり違っていたようだった。そもそも、目指す目標が違うのではないかという思いがし、迷いが出た。だが、日本の作曲家や演奏家には平和を願う人が多い。池辺晋一郎氏をはじめ、坂本昇一、林光、高橋裕治、一柳慧と枚挙にいとまがないくらいだ。彼らは歌声運動以外の出身だが、歌声運動にかかわった人と同じ思いを共有している。そこに括弧はない。

 一瞬迷ったが、やはり括弧なしの最高の合唱団になってほしいと思う。東京混声合唱団は日本最高レベルの合唱団であるが、毎年「原爆小景」をうたっている。今年は第五福竜丸に行って「原爆小景」を歌った。

 音楽のことはよくはわからないが、美術の力をつけるためには、描く訓練と同時に、自分の目標とする絵画をたくさん見ることが必須の条件になる。おそらく音楽も同じではないだろうか。
  


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