検事の犯罪 
   2010年10月20日

 大阪地検特捜部の元検事が証拠を改ざんして起訴された。その改ざんを隠ぺいした容疑で上司の前特捜部長らが逮捕された。この件は前代未聞の不祥事といわれているが、先日松川事件の弁護士だった今井敬彌(けいや)氏が朝日新聞「私の視点」に以下のような記事を投稿していた。
 
 私が差し戻し審の弁護団の一員としてかかわった「松川事件」では、検察官による証拠の隠滅が執拗に行われた。検察官が自分たちに都合の悪い事実や証拠を隠すことは昨日今日に始まったことではない。
 松川事件は1949年8月17日、福島市の東北線松川駅付近で、列車が転覆して乗務員3人が死亡した事件で、国鉄労組や東芝労組の組合員ら20人が起訴された。
 検察官が隠ぺいした証拠は第一に、レールとレールをつなぐ継ぎ目板を外した実行犯として逮捕され、虚偽自白した被告の「継ぎ目板を一ヵ所外した」という供述と矛盾する、もう一ヵ所の継ぎ目板だった。事件現場ではレールが跳ね飛ばされており、そのためには、二か所で継ぎ目板を外さなければならない。ところが、検察側は虚偽自白の供述に合わせて一ヵ所分の継ぎ目板しか証拠として法廷に出していなかったが、二審になって隠していたもう一ヵ所の継ぎ目板とボルトを出してきた。
 第二は、8月13日に行われた連絡謀議に参加したとして一審で死刑を求刑され、懲役15年の有罪判決を言い渡されたある被告が、その日時に郡山警察署に留置されていた知人の面会に行っていたというアリバイの根拠となる同署の面会記録簿だ。これも一審では隠し通し、二審でようやく出してきて、一部無罪判決の決め手となった。  
 第三は、8月15日の連絡謀議に参加したとして一、二審とも死刑判決を受けた被告がその日時に労使交渉に出席していたことを裏付けるメモ(「諏訪メモ」)だ。アリバイを証明する有力な証拠にもかかわらず、検察側は上告審まで隠し、弁護側が「労使交渉ね経過を記録した会社側のメモがあるはずだ」と再三主張し、最高裁がメモを出すように勧告したところ、しぶしぶ出してきた。その結果、最高裁は二審判決を破棄、差し戻す判決を出し、被告全員の無罪判決につながった。
 松川事件のような社会的関心の高い重大な事件で、検察官個人の判断で重要な証拠を隠匿することは考えられず、「検察同一体の原則」から考えても検察の組織ぐるみの隠匿だったと思われる。現に諏訪メモは移動する副検事に転勤先に持たせて隠匿した。しかも、無罪判決確定後も、検察は冤罪を生んだ捜査の問題点について全く検証や反省をしなかった。そのため隠匿体質が温存され、今回の証拠改ざん、犯人隠避事件を生んだのではないか。
 今回の事件を契機に、刑事訴訟法を改正して検察官に手持ちの証拠すべての開示を義務付け、それに違反して、証拠を隠した場合、厳罰を科する必要があると思う。
(『朝日新聞』2010年10月16日)
 
 今井さんも書いているが、この事件(村木さんを逮捕して起訴した)は前代未聞の行為ではない。遠くは『大逆事件』(1910年)から『横浜事件』『松川事件』などその例はいくらでもある。
 

註:1 大逆事件
 堺利彦や片山潜らが「平民新聞」などで、労働者中心の政治を呼び掛け、民衆の間でもそのような気風がはやりつつあった中の1910年(明治43年)5月25日、信州の社会主義者宮下太吉ら4名による明治天皇暗殺計画が発覚し逮捕された。「信州明科爆裂弾事件」が起る。以後、此の事件を口実にすべての社会主義者、アナキストに対し取り調べや家宅捜索が行われ、根絶やしにする弾圧を、政府が主導、フレームアップ(政治的でっちあげ)したとされる事件。
 敗戦後、関係資料が発見され、暗殺計画にいくらかでも関与・同調したとされているのは宮下太吉、菅野スガ、森近運平、新村忠雄、古川力作の5名にすぎなかったことが判明した。1960年代より「大逆事件の真実をあきらかにする会」を中心に、再審請求などの運動が推進された。それに関して最高裁判所は1967年以降、再審請求却下及び免訴の判決を下している。
 信州明科爆裂弾事件後、数百人の社会主義者・無政府主義者の逮捕・検挙が始まり、検察は26人を明治天皇暗殺容疑として起訴した。松室致検事総長、平沼騏一郎大審院次席検事、小山松吉神戸地裁検事局検事正らによって事件のフレームアップ化がはかられ、異例の速さで公判、刑執行がはかられた。
 1911年1月18日に死刑24名、有期刑2名の判決(鶴丈一郎裁判長)。1月24日に幸徳秋水、森近運平、宮下太吉、新村忠雄、古川力作、奥宮健之、大石誠之助、成石平四郎、松尾卯一太、新見卯一郎、内山愚童ら11名が、1月25日に1名(菅野スガ)が処刑された。特赦無期刑で獄死したのは、高木顕明、峰尾節堂、岡本一郎、三浦保太郎、佐々木道元の5人。仮出獄出来た者は坂本清馬他6名。
 
 今年は「大逆事件」100年目であり、いくつかの論考が新聞・雑誌に載っている。註にあるように、大逆事件は当局が社会主義者やアナーキストを弾圧する為に無理やりでっちあげた事件であったのだが、罪人に仕立てられた人々はその子孫に至るまで大変な苦しみを味わった。社会的には、此の事件を境に日本の民主主義は声を出すことが出来なくなり、冬の時代を迎えた。

註2:横浜事件
 1942年総合雑誌『改造』に掲載された細川嘉六の論文「世界史の動向と日本」が共産主義的でソ連を賛美し「政府のアジア政策を批判するもの」などとして問題となり、『改造』は発売頒布禁止処分にされた。そして9月14日に細川が新聞紙法違反容疑で逮捕された。
 操作中に、同著者と『改造』や『中央公論』の編集者などが同席した集合写真が同著者の郷里・富山県泊町の料亭旅館「紋左」で見つかり、日本共産党再結成の謀議を行っていたとされた。(「泊事件」)
 実際は細川が1942年7月5日、出版記念で宴会を催した際の写真であったとされている。1943年に改造社と中央公論社をはじめ朝日新聞社、岩波書店、満鉄調査部などに所属する関係者約60名が次々に治安維持法容疑で検挙され、神奈川県警特別高等警察(特高)は被疑者を革や竹刀で殴打して失神すると気付けにバケツの水を掛けるなど激しい拷問を行い、4人が獄死した。
 判決が下ったのは終戦直後、即ち治安維持法が廃止される1ヶ月前の1945年8月下旬から9月にかけてで、約30人が執行猶予付きの有罪とされた。GHQによる戦争犯罪訴追を恐れた政府関係者によって当時の公判記録は全て焼却され、残っていない。遺族が再審請求に提出した証拠の「確定判決書」はアメリカ国立公文書記録保管局(NARA)に保存されていたものの謄本(全文写し)である。当時手を下した元特高警察官30人が告訴され、うち3人が有罪となったが、彼等はサンフランシスコ平和条約発効時の大赦により、1日も服役することなく釈放された。また判検事に対しては何らの処分もされていない。

 横浜事件は1942年に起きた言論弾圧事件でこれまた典型的なフレームアップであった。無かったことをあったといわせるのだから、普通の調べでは出来る筈がない。大変な拷問がなされたことで有名である。事件の判決は戦後に出されており、関係者は戦犯に問われることを恐れて記録を焼却してしまった。

 このように見て来ると、検事による犯罪は「前代未聞」どころか、日本の司法の伝統であることが分る。しかも、その犯罪がいずれも「おとがめなし」に終わっていることが特徴だ。
 松川事件の検事は無罪を証明する証拠を隠したのにそのまま何の責任も問われていない。大逆事件をでっちあげた犯人は出世して終っている。反対に無実の罪を着せられた人は国家権力により殺されたり、一生を罪人として過ごさねばならなかった。それだけでなく、子孫までが世間から白い目で見られ苦しんだ。

 冤罪事件ではないが「小林多喜二の拷問死などの罪は問われないのか」という疑問も含めて司法の横暴についてわれわれはこれからも追求していかなければならないのではないか。
 ドイツではナチスに協力した人間を告発し、その罪と責任を一般人民を含めて追及した。わが日本では上記のような犯罪行為でさえ許されたままになっている。告発されても実質的にはその責任は見逃されている。これは日本の司法の責任であることはもちろんだが、われわれ一般の人民がその無法に気がつかず(あるいは、無法を知ってもあきらめてしまって)追求しなかったことにも原因があったのではないだろうか。これこそ日本の特徴だった。だが、これではいけない、と強く思うこのごろである。

 もし、今回の事件に「前代未聞」があったとすればそれは特捜部の違法捜査が公にされ、刑罰の対象になったことであろう。


BACK NEXT 通信一覧