川上冬崖について     2010年12月22日

 滝澤明由美さんに「まほろば美術展」の歌をお願いしたことがきっかけになり、滝沢正幸さんに「友の会」の講演をお願いすることができそうだ。演題は「川上冬崖」関係の話になる。
 川上冬崖の名はずっと前から知っていた。名前を知るよりはるか以前に彼の絵を知っていた。それはナポレオンの肖像画である。確か昔からうちにあった「世界美術全集」に掲載されていたような気がするが定かではない。
 その後も信濃美術館で開かれた「川上冬崖展」を観に行ったりして、冬崖が日本の水彩画の最初の画家であったことなどは知っていた。

 そこで、いい機会なので冬崖についての講演をお願いしようと思い立ったのだが、お願いするにあたって、少しは調べておかなければいけないと思い、インターネットで調べ始めた。すると、思いがけないことが次から次へと分ってきた。


 一番驚いたのは、冬崖は熱海で自殺していたと云う事である。それもただの自殺ではない。謎の自殺というか、不審死というか、おかしな死に方をしていると云う事である。今流に言うと「何かの事件に眞子込まれた疑いがある。
 そこで、彼の生涯を調べてみた。
 

 
冬崖は、1827年現長野市北屋島の山岸家に生まれた。

幕府の蕃書調書に出仕。明治維新後、新政府に招かれ、再興された開成所に出仕し画学教授のかたわら私塾を開き洋画壇で活躍する多くの門人を育てた。(高橋由一、小山正太郎他)

明治13年、冬崖の教育を受けた測量師や測量手らによって、有名な「迅速測図」約900 枚の作成が始まった。 ところが、この地図作成の最中の明治14年に、陸軍の内部抗争ともいわれる、謎の多い清国への「地図密売事件」にまきこまれ、冬崖は熱海の静養先で非業の死を遂げた。

 更に調べると、井出孫六が「アトラス伝説」という小説を書いており、そこに冬崖の死の謎が書かれていることもわかった。そこで「アトラス伝説」を読んでみた。更に、井出孫六の「明治取材の旅」という記録には「アトラス伝説」についての補足ともいえる記録が書かれていた。

 上の囲みの中に書かれている「陸軍の内部抗争」というのは旧幕府の人間が中心になって構成されていた陸軍の地図作成グループが山県有朋や桂太郎らの陰謀によって長州藩出身者が牛耳ることのできるグループに替えられる際しての陰謀によってスパイにでっちあげられたということのようである。

 そこで、川上冬崖らがつくった「迅速測図」とはどういうものかを調べてみると、これが驚くべき優秀な地図であることが分った。つくった時期は明治初期(下の図は明治14年作製)、枚数は900枚余、縮尺は二万分の一で地図の周囲にその場所の特徴ある風景が描かれている。しかも色つきなのだ。
 インターネットで調べたところ、その地図の複製が現在も販売されていることが分り、早速購入した。

  川上冬崖  「千葉県…印旛郡八代村近傍村落」

 このような陰謀がなぜ為されたのだろうかと疑問に思い、調べたところ、以下のようなことが分った。

 長州は尊王攘夷(極端な鎖国政策)であり、徳川幕府の開国政策を罵倒していた。幕府はフランスと組んで新しい知識を学び「開成所」などの学問所をつくって優秀な人材を育てていた。ところが幕府は薩長軍に敗れ明治政府が成立した。 だが明治新政府(薩長)には地図をつくるだけの人材がいなかった。そこで止むを得ず、川上冬崖らの旧幕府の知識人を雇い、地図をつくらせた。彼等はフランスの知識を学んでいたのでフランス式の地図を作製した。現在でも通用する三角点をきめて測量するやり方であった。
 明治になり、急遽文明開化政策を推し進めた長州勢力はドイツから知識を輸入した。そこでドイツ式の地図をつくろうとし、自分たち主導でも地図をつくれる見通しができたので、それまで地図をつくる中心になっていた人物を策略によって罪を着せ交代したのである。その中心になったのが山県有朋であったようである。


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