金玉均の書    2月2日

 母の実家は小諸である。誰もがそうであるように、子どもの時は小諸へ行くのがこの上ない楽しみだった。
 この家は海産物の問屋をしていた。私の小さな頃は終戦前後だったので物資が欠乏していた。特に食べ物がなかった。ところが小諸の家は食べ物の問屋であったこともあり、おいしいものが豊富に食べられた。
 祖母がなくなってからは以前ほどは行かなくなったが、それでも私にとっては最も親しい親戚であった。現在は叔父が夫婦だけで住んでいるが、最近は以前とは別の話ができるようになり、親しく話すことも時々ある。

金玉均の書

 昨年ここを訪問した時珍しい額を見せられた。
 「どうだいこの額は」と言って叔父(小山宗一)が床の間にかけてある額を指差した。


 「なかなか良い字ですが何て書いてあるのですか」と聞くと
 「隆さん、この字が読めないかい」と言う。
『宜爾室家』と書いてあるように見えたが、それで良いのか自信はなかった。読みも意味もはっきりしないので「宜きかな汝の家の部屋、とでも読むのでしょうか。それだと意味がはっきりしないし、良くわかりません」というと、叔父は一枚の新聞コピーを持ってきた。

朝鮮時報 1998924

 

長野で金玉均の書を観る

自由民権運動とも関わりか

琴 乗 洞

 五月の中旬、朝鮮大学校の金秀大氏から「卒業生から、小諸の日本人の家に金玉均の書が二つある、との連絡があったが、できれば真物かどうか鑑定してもらいたい、とのことですが」との話があった。
 これまで金玉均の長野行きの記録はみたことがない。それが長野で出たとあらば、新事実の発見につながる。私は即座に「行きましょう」と言った。
 六月六日、金秀大氏と私は上田に向かった。上田駅には71年卒業生で「千石綜合観光」の鄭元海社長が待っていた。鄭氏は車で私たちを小諸の小山宗一氏のお宅まで案内してくれた。
 小山家宗家は信州では慶長以来、数百年の伝統を継ぐ名家であるが私と対座された宗一氏は、分家で、屋号を「山五」と称して、代々、醤油醸造と山林経営、海産物問屋を家業とした豪商である。また、明治の初期、まだ鉄道がなかった時期、東京・秋葉原の東京支店と小諸との間に陸運業「帝国中牛馬会社」(現在の丸通)を創業するほどの先見性に富んだ実業家であった。

 私たちの前に三幅の書が出された。いずれも横用のもので、二幅は金玉均の書、一見して直ちに真筆と知れた。残る一幅は、中江兆民のもので「世事当行秋流水」(世事、まさに行秋たるべし)と読めるが、金玉均の二書は、共に三字目が直には読めない。これは東京に戻り、鄭氏の撮影した写真を「くずし字辞典」で対照して次のように読んだ。「宣爾寶家」(よろしくなんじ、家を宝とすべし)、「寄謂虚曠」(虚曠(むなしく、曠大なる)を謂(おもう)に寄す)
 この二書には、共に「小山君正 古愚書」との為書がある。古愚とは金玉均の号である。私はこの二書がこの家にある由来を小山氏に聞いた。
 この書は、金玉均がこの家でかくまわれていた時、記念に残したそうである。金玉均を連れてきたのは、小山悦之助である。金玉均をかくまった家はこの家が改築されるまで、この奥にあった、等々である。

 私は、金玉均長野行きの記録がないことを述べ、今一つ、傍証として、この家での日記か新聞記事が欲しいと言った。その時、1980年刊の小山敬吾著「千曲川」を出された。
 そこには、「悦之助の手引きで小諸の『山五』に身を潜めた」との記述があったが、典例資料は記されていなかった。これでは金玉均長野行きの確証にはならない。
 この書も東京の悦之助宅で書いて、東京に持ってきた可能性も否定できない。そのことをいうと小山氏は、「東京のものを小諸に持ってくるということは無かったはずです。東京の悦之助家にあったものは、そのまま残っていました。しかし、この東京にあったものは関東大震災の時、家もろとも、みんな焼けてしまいました」という。

 私は小山悦之助の名に心当たりがあった。1916(大正5)年、葛生東介が「金玉均」(164ページ)という本を出した。玉均の在日生活を知る上での実に貴重な本で、多くの金玉均の友人たちが思い出を寄せていて、ここに小山悦之助の名があるのである。
 しかも朝鮮の近代史にとって大変に重要な資料「甲申日録」原本のことが書いてある。朝鮮近代史に一大画期をなす甲申制度についての最重要資料は金玉均自身が、日本亡命後に書いた「甲申日録」であるのは、天下周知のことである。しかし、朝鮮(南北とも)や日本の歴史研究家が探しても、あるのは、写本ばかりである。しかも、転写の際の誤字がそのまま誤記されていて、真を伝えるという意味では、欠けるものがある。では、原本はどこにいったのか。

 小山悦之助は上記「金玉均」中に「金玉均氏の日記と絶筆」という談を寄せている。
 
 金玉均は上海行きの二日前に訪ねてきて、今までのお礼といって「一間の稿本」、すなわち金氏が明治十七年の騒乱の顛末を自ら記した日記」、つまり「甲申日録」原本を渡したという。彼は「之を頂戴して大切に秘蔵して居る」といっているが、これがウソでないのは、上記「金玉均」本に金玉均自筆の有名な甲申政変時の郵政局開局祝宴の際の、大きなテーブルを囲んだ十八人の人物名を記した図が挿絵として写真版で入っていることでも判る。
 しかし、小山宗一氏の話で、「甲申日録」原本が関東大震災時に消失したらしいという証言になり、誠に残念である。

 ところで、金玉均の長野行きはあったのか、ということと、時期は何時からかということについては、おそらく長野行きが事実と思われること、また時期については悦之助自身が「金玉均氏は在京中葛生(東介)の紹介で遊びに来られた」と言っていることから、1891(明治24)から、923年にかけてのことであろうと思う。
 葛生はこの頃金玉均と知り合い大変に傾倒していたからである。もう一つ、逸してならないことは、小山家が信用に足る自由民権運動の拠点で会ったことと関連して、金玉均の小諸行きは信州での自由民権運動との関わりで考察すべきことであろう。(朝鮮現代史専攻)

 

註 金玉均―1851年生まれ。李朝末期の開化派のリーダーであり、188412月甲申政変で中心的役割を果たし、政権を○るが三日で倒れ、日本へ亡命し幽閉生活を送る。後に上海に渡るが1894年○月に暗殺される。


 琴乗洞氏についてインターネットで調べてみたが、探せなかった。「金乗洞」という名前があったので、あるいはこの人かもしれない。

 
 ここに出てくる小山悦之助は前出小諸の山五の長男で、小山宗一の叔父にあたる。彼が東京へ出たので山五は弟の安治(宗一父)が継いだ。資料にも書いてあるように、悦之助の家は関東大震災で丸焼けになってしまった。そこで山五ではこの長男一家の面倒を見たのだそうだ。生活費の援助や学習院へ行った二人の子どもの学費も出したという。89歳になる私の母の言によれば「私たちは質素なものを食べ、木綿の着物しか着たことがなかったのに、東京の家では優雅な生活をしていた」そうだ。なぜそれほどにして援助したのかはわからないが、なにか事情があったのだろう。

 その小山悦之助と金玉均が親しくしており、その関係で山五に来たのだという。なにしろ亡命中の人物だというので、山五では彼のために隠し部屋を作ったり逃げるための階段を作った。確かピストルも隠してあった。私も一度従兄弟の案内で隠し部屋に入った覚えがある。

 私は「金玉均」という名前はまったく知らなかったので、叔父に新聞のコピーをもらい帰って調べてみた。

 金玉均については沢山の資料があったが、わかりやすいものを載せてみる。

 

金玉均 きんぎょくきん

アジア アジア AD1851 

 1851〜94 李朝末開国(1876)後の開化派の指導的政治家。6歳のとき門閥貴族安東の金炳基の養子となる。字は伯温,号は古愚。1872年,科挙試文科を首席で及第した。朴珪寿呉慶賜らの影響で,開化思想をいだいた。1881年,日本を視察し,福沢諭吉と親密となり,留学生派遣や「韓城旬報」の発刊に協力し,日本政府の援助を期待し,国王を啓蒙して上からの国家改革運動を積極的に推進した。守旧的な閔氏勢力は清国を背景とし,巻き返しをはかった。開化派清仏戦争などの国際的条件を計算し,1884年12月4日,クーデタによる政権掌握をはかり,国王を擁して改革に着手した(甲申の変)。三日目,清国軍の攻勢にあって敗走し,日本に亡命し,小笠原諸島や北海道に軟禁された。1894年3月28日,上海で刺客洪鐘宇により暗殺された。開化思想の積極性は評価されるが,日本の侵略をひきいれる契機をひらいたともみられ,朝鮮近代史上の一つの論争点である。


日韓文化交流 金九漢・森獏郎展

 さて、そのことはここでひとまず中断して、現在ひとミュージアム上野誠版画館では6月1日から15日までの期間「日韓版画・陶器交流展」を計画している。今年が日韓友好の年であることや昨年末から続いている川中島町での日韓交流の一環として企画している。そのメイン作家として韓国の陶芸家金九漢氏と千曲市の版画家森獏郎氏を考えている。


        オモニ(母) 金九漢                 1945・マツシロ 森獏郎

 金九漢氏は韓国の新進作家で、昨年松代のレストラン西館で作品の展示会と講演会が行われ、好評を博した。また、新潟県津南町には彼が半年かけて作った陶の家があるという。陶作品が次第に庶民の生活から離れ,飾るものになっていくことに反発し、土の家の囲りに粘土で窯を築き、火を入れて焼き上げた作品である。家(陶作品)に入って、食べたり飲んだり歌うことも出来る。また、そうすることを願っているのだという。

 森獏郎氏は日本板画院の会員であるが、地元千曲市に住み松代大本営地下壕で犠牲になった朝鮮人の鎮魂を込めて「マツシロ 1945」を制作している。

 この作品展について板倉弘美・松葉浩子氏と話しているうちに板倉氏が
「金九漢は最初から陶芸をやったのではなくて音楽を目指していたが、当時の政府につかまり拷問され指を使えなくされたため陶芸の道に入った。金芝河(キムジハ)などと親交があるひとだ。彼の祖父は金玉均というひとで朝鮮の近代化をめざした著名な人だったそうだ」と言った。

 それを聞いた瞬間、私は「はっ」とした。
「金玉均?もしかしたらクーデターを試みて失敗した人ですか?」と聞くと「たぶん、そうだ」
というではないか。
「それなら、まんざら知らないでもない。事実だとしたら不思議な縁だから、お会いして展覧会の構想だけでなく、いろいろ話したいこともある」
ということになり、板倉さんは近日中に韓国に行き、直接金九漢氏とお会いし、段取りを取ることになった。

 不思議といえば誠に不思議なことである。「金玉均」という名前さえ知らなかった私が「金九漢」というこれまた名前を知らなかった陶芸家の作品展をやろうと思い、準備をはじめたとたん知らなかった両人が繋がっていることが判ってきた。
 私はこのような偶然を大切に考えたい。

 この話が実現すればそこから更に広がりを持って交流の幅も広がっていくだろう。
 

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