金九漢氏との出会い    2月24日(木)

 金九漢という名前を最初に聞いたのはレストラン西館で韓国焼き物展が行われた時だった。
 白磁の作品が数十点並んでいたが、その印象はあまり強くはなかった。私に買おうという思いがまったくなかったことにのよるかもしれない。そのとき入り口に女性がうずくまっている大きな作品があるのが気になった。それが金九漢氏の代表的な作品であった。
 その後、板倉さんと当館を訪問されたが、その時私はスロヴェニアを訪問中でお会いできなかった。

 昨年秋「アジア文化交流会」を開いた後、この会を継続して続けようということになり、先日第2回が行われた。

 第3回として日韓の版画・焼き物展を行おうという話になり金九漢氏の焼き物と森貘郎氏の版画を展示するという方向になりつつある。その打ち合わせの中で板倉さんが「金九漢は金玉均の孫になるという話を聞いた」と言ったので私はにわかに彼に興味を持つようになった。というのは、以前この通信にも書いたが、金玉均は小諸の叔父の家にしばらく身を潜めていたことがあったと聞いていたからである。

 そんな話をしている最中、突然板倉さんから電話がかかってき、「金九漢が突然やってきた。いま上田にいるから、つき次第ひとミュージアムに行きたいので宜しく」とのことだった。

 i板倉さんと一緒に来訪された九漢氏にご自身と金玉均との関係をお聞きしたところ、確かに彼とは血縁関係にあり、家系を継いでいるが、直接の血統ではないとして、次のようなことを話してくれた。

    板倉弘実さん    金九漢さん

 金玉均は国賊ということで暗殺された。それだけでなくその一族は国賊だということで処刑された。
 当時の朝鮮は閔家と金家が有力で閔氏は守旧派で清朝を後ろ盾にし、金氏は革新派で日本の明治維新から学ぼうとしていた。金玉均らのクーデターが失敗した後は閔氏が力を握っていたので金玉均は国賊になっていたのである。

 金という姓は沢山あるが金玉均は「安東金」という家柄であった。この家系は士族であった。(朝鮮にも士農工商身分はあり、日本より徹底していたのだということをはじめて知った)日本の士族は「武士」階級であったが朝鮮は「文士」階級であり、日本流に言えば貴族とか華族になるらしい。日本と違い武は卑しいとされていた。
 金氏に限らす朝鮮では子どもの名前は陰陽五行説に従ってつけていた。金玉均でいえば
1代 金玉   土偏  
2代 金黄鎮   金偏
3代 金九    さんずい     
4代 金仁   木偏
5代 金孝R   火偏
 となって、名前には五行(土、金、水、木、火)が繰り返されている。
 従って土偏の均という文字が最後についている名前は「安東金」家のものだということがすぐ判る仕組みになっているのだそうだ。最近はこのような伝統も急激に崩れているようで、リナとかジュリーなどという名前をつける親が増えてきたようだ。

 「処刑は一族に及んだ」という意味は姓が金で名前に「均」のついている者はすべて殺されたのである。殺された後、四肢をばらばらにし、それを見せしめとして全国を巡回させたという。
 金玉均の家系は彼の処刑で断たれたので最も近しいものが継いだ。しかし「均」の文字は使えず「圭」の文字を使った。これが金九漢氏の祖父である。

 九漢が間違いなく金玉均の近親者であることがわかったためもあり、私は親近感を覚えた。

 金さんの作品には象嵌の青磁や粉引きなどあるが、なんといっても大陶による 家の作品が特徴のようであった。これは世界で彼しか作っていない。
 


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