佐藤哲三展をみる  3月15日

 神奈川県立近代美術館で佐藤哲三展を開催している。
 佐藤哲三については以前から興味があり一度見たいと思っていたので、忙しいなかではあったが観にいった。

 佐藤哲三略年賦
 1910年  新潟県長岡に生まれる
 1914年  脊椎カリエスを患い、障害を負う。
 1928年  第3回国展に「牛の居る風景」初入選
 1930年  第5回国展で「赤帽平山氏」が国画奨励賞受賞
         梅原龍三郎氏が激賞する
 1935年  第10回国展に「苦悩」「柿」等出品(「苦悩」にはケーテ・コルヴィッツの影響が見られる)
 1940年  郷里で子どもの絵の指導を始める。3人からはじめたが後には30名になったという。
 1945・6年 地域の民主化運動、労働運動、組合結成に奔走する。
 1949年  体調不良を訴える。日本美術会に入会
 1953年  第27回国展に「みぞれ」他出品
 1954年  6月没
 
    赤帽平山氏                      みぞれ

 佐藤は若い頃(18歳)ゴッホに引かれ、その影響を受け、左のような作品を制作した。梅原龍三郎にその才能を高く評価され、国画会展に入選した。
 若くして華々しくデビューした佐藤はその後ふるさと新潟にいて中央で活躍することはなかったが、ふるさとを愛し、人を愛した一生は私の心を打った。

 新潟県六日町に住む桑原春雄さんが著した「南魚沼先駆けの群像」には佐藤哲三と上野誠について
「昭和27年には丸木位里・赤松俊子夫妻の「原爆の図」の新潟県内移動展を組織し、自作の版画「戦 争はもういやです」をポスターとして手刷りで制作し、県内各地で使用した。六日町平和の会結成にも 参加した。上野誠が長谷川正己の友人で近年広く注目されるようになった新発田の画家佐藤哲三と 親しく交友するようになったのは六日町にいた時期かと思う」
と書かれている。

 上野誠が六日町にいたのは1945年12月から1952年4月までである。この間上野は労働組合を組織したり南魚沼郡の労働組合協議会の初代議長になるなど平和運動や労働運動に全力を挙げた。
 佐藤哲三も1945年「生活のために加治村で職人を雇い自転車店を経営しながら、地域の民主化運動、教員組合結成に奔走する。そのため、本格的な絵画制作を数年、中断する」(年譜)とあるように民主化運動や平和運動、労働運動に全力を挙げていた。

 『佐藤哲三展』パンフレットの年譜によれば1947年故郷のサークル「絵を描く話の会」に招かれた佐藤の講話について里村洋子氏は「クライマックスは何と言っても『正しくゼネストを理解せよ』と水彩で描かれた二・一ゼネストポスターについてだった。丸い筒にはそのポスターが入っていたのだった。私たちは床の間に張って鑑賞した。このポスターを前に哲三は二・一スト中止命令が出されたことに対する日本人民の屈辱について説いた。ゼネスト前夜の中止命令に泣く指導者、産別の伊井弥四郎の怒りと悲嘆にくれる様子、それを見てGHQが「なぜ泣くか!」と詰め寄る情景などを哲三は、名優のセリフよりも沈痛に、わが身のことのようにして演じ、私たちに語り迫った」とかいている。

 このように見ると上野誠と佐藤哲三は極めて似た軌跡をたどっているように見える。両者が共通の関心を持ち共通の運動をしていることから、親しく交わったであろうことは推測できるのだが詳しいことがわからない。この点について詳しいことを知っている方がいたら是非教えて欲しいと思っている。

 1949年佐藤は絵に専念するため加治村から新発田市に引越したのだが、妻豊子は単身加治村に残った。そのことについて豊子は「私は子どもたちと店の者と残って自転車店を続けた。戦後の社会は激変していたので、立ちおくれて絵に入った彼は、絵のほうでは、すでに、かつての画家として取り扱われ、また、赤のレッテルで警戒されていることがわかった」と書いている。
 
 豊子はこのように書いているが、哲三の絵を見ると、これから後に描かれた「原野」「残雪」「みぞれ」などの作品は傑作であり、彼の戦後の活動がこれらの絵を描かせたのだということがよくわかる。
 ブランクに見える彼の活動は決してブランクではなくて糧になっていたのだ。上野誠についてもまったく同じことが言える。


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