『農への銀河鉄道―いま地人・宮沢賢治を―』 小林節夫著を読んで    10月5日

 佐久の小林節夫さんから一冊の本が送られてきました。「農への銀河鉄道―いま地人・宮沢賢治を―」です。早速読み始めましたが、他の仕事をやりながらだったので数日かかってしまいました。今読み終わりましたので、簡単な感想を書いてみようと思います。

 この本のほとんどの部分は宮沢賢治の農業に関わる行動と作品について書かれています。私は、いままで賢治の童話が好きで何冊か読んでいましたので、その方面の知識は少しありましたが、農業についてはほとんど知らなかったので、この著書は大変刺激的した。童話を理解するうえでも大いに役立つと思いました。

 この著書のもう一つの特徴は、全編にわたり、今日の私たちがなすべき課題や小林さん自身の生き方との関わりを意識して書かれていることです。農業問題、戦争責任、対米関係などについても宮沢賢治論を通して書かれています。このことは、この著作が論争的なこととも関係あるように思いました。

第一は自分の生き方と文学を一致させようとした賢治について

 小林さんの主張は「宮沢賢治の作品は彼の生き方と不可分なので、作品鑑賞と人間論は切り離すべきではない」というものです。

「賢治の最も著しい特徴の一つは、口で言ったり、詩で歌うだけでなく、自分みずから農民たらんと開墾し、耕し、肥料相談会を開き、実際に田んぼを歩き回ってその結果がどうだったか、その年の天候を心配しその対応を考えた―口先でなく実践家だったという事実です。賢治を批判する場合、その詩だけから論ずる傾向があります。しかし、その人の詩の解釈だけから賢治の活動・行動を決め付けたりすることは慎むべきことではないでしょうか」(p94)

「文学は文学だけで、詩は詩だけで独立して考えるべきだと言う説は一面もっともですが、賢治の生き方について文学だけで語ろうとすると間違うのではないでしょうか。文学だけでなく、いろいろな角度からも考えるべきではないでしょうか」(p142)

 小林さんは「宮沢賢治の人生(実際の生活・生き方)があって、はじめて賢治の作品があるのだ」と主張しています。それは恐らく小林さん自身のいままでの生き方から導き出された結論なのでしょう。
 小林さんは、宮沢賢治がいくら優れた童話や詩を書いていたとしても、書斎の中だけで生涯を終わっていたとしたら、これほど賢治に惚れこまなかったのではないでしょうか。農学校の教え子に「農業をしなさい」と教えながら給料をもらっている自分の生き方に満足せず、自ら農民として生きる道を選んだ宮沢賢治に心打たれたに違いないのです。そこにこそ賢治の最も賢治らしさがあり、私たちの心をひきつけるものがあると主張しているように思いました。少なくとも小林さんにとってはそうだったと思います。
 私は自分がこのように生きていないことを自覚しながら、賢治の生き方と小林さんの生き方を仰ぎ見ています。


 第二は賢治と農民の関わり方についてです。

 宮沢賢治は農業を崇高な職業だと確信し、農民をこよなく愛していました。だが、実際の農業は厳しく、農民もねたみ深く、欲が深く、賢治は白い目で見られたようです。 
 賢治の理想と現実の農業や農民の姿との食い違いをついたのが中村稔の「宮沢賢治論」だったように思います。中村の主張の大筋は「宮沢賢治は農業を理想化し農民に夢を描いたが、実際の農業や農民は賢治の思っていたものとは大違いなのだ。それがわからず自分の理想を追い求め、羅須地人協会を作り農業に挑んだ賢治は、現実の前に失敗し挫折したのだ」というものでした。

 小林さんは中村稔説に異議を唱えています。
 小林さんは中村が唱える農民像のすべてを否定していませんが、自身の経験から別の農民像を見て、農民賢治の生き方を肯定しています。この著書の扉に描かれているように、農民は描き、歌い、踊り、創ることに喜びを感じています。作物を販売することだけでなく、消費者に喜ばれる野菜をつくることに生きがいを感じています。阪神淡路大震災に際しては食糧を山のように送っています。そういう農民の姿を熟知した上で中村稔に反論しています。
 つまり、賢治の行った実践はありえない絵空事ではなくて、健康などの条件があれば十分に可能だったと推察しているように思われます。そのような、小林さん自身の実践・見聞の上に立って、農業や農民の肯定的な側面や可能性を見ることのできない中村の評論を批判しているところに小林さんの真骨頂を見る思いがしました。

 第三はベートーヴェンとの比較の仕方についてです。

 この著書で小林さんは賢治の悩みとベートーヴェンの悩みを並べるようにして書いています。

「羅須地人協会を立ち上げ、地域の農民と共に生きようとした賢治にとっては、単なる毀誉褒貶へのやり きれなさというより、ベートーヴェンが音楽家として何よりも大切な聴力を失ったと同じくらい、どんなにか 辛く、寂しいことだったでしょう」
という文に続きベートーヴェンの「ハイリゲンシュタットの遺書」を引用しています。
 遺書の中でベートーヴェンは弟たちが自分を意地悪で、強情っ張りで、人間嫌いな人間のように扱ってきたが、(僕がそのように見えた原因は)それには耳が聞こえなくなると言う絶望感があり、そのことを人に口外できない事情があったのだ、と言っています。

 賢治の詩がかなり生前未発表のものが多いのは事実です。それは、身に覚えがない農民の反感や白い目について、詩には書かずににはおれなかったでしょうが、さりとて、発表できなかったのではないでしょうか。それはベートーヴェンが「自分の難聴をどうして人に言えるか」といってそれをしまい込んでしまったのと同じではないでしょうか。もちろん、『春と修羅』に続いて、「和風は河谷いっぱいに吹く」という詩は生前発表しながら、同じ日に書いた「もうはたらくな」は生前に発表しなかったのはなぜでしょう。ベートーヴェンが遺書で「どうして自分の難聴を人に言えようか」といったように、賢治は農民との間のこんな詩を発表できたでしょうか。(P138)

 私はこの部分には若干の疑問を感じました。ベートーヴェンの悩みは作曲家が仕事をする上での決定的に重要な耳を患ってしまったことに対する絶望であり、悩みです。これに対し賢治の悩みは自分の思いが愛する農民に伝わらないことに対する悩みです。悩みの深さは両方ともに深かったでしょうがその質は大きく違っていたと思います。
 ベートーヴェンが自分の難聴を人に言えなかった事情と賢治が農民に白い目で見られたことを発表しない事情を同じだとする意見はやや無理があるように思います。両者の悩みの質があまりにも違いすぎます。

 第四は、文章の「語尾」についてです。

「ではないでしょうか」で終わる文章が全編にわたりたくさんありました。

「・・・・それは教育現場もさることながら、親や社会一般が限られた「基準」で評価し、子どもや生徒をそういう眼で見ていることにも色濃く現れているのではないでしょうか。口ではいろいろわかったようなことを言っても、いざ、身近な進学や、「不登校」の問題が起きると、そういう視点がどこかに忘れ、捨てられているのではないでしょうか。やわらかな感受性をもつ子ほど傷つきやすいという側面もあるのではないでしょうか。その感受性に富む子を欠陥児童のように見がちではないでしょうか。・・・」(p87)

「ないでしょうか」は断定や終止でなく、「問いかけ」の文体です。ここで使われている「ないでしょうか」は疑問への回答を求めるのではなく、同意を求めている文章のように思えます。そのため、読む側から言うと「説得」されているように感じてしまいます。
 よく、政治家が演説するとき「・・・ではないでしょうか」と言いますが、あまり使うと押し付けられているような気分になります。あるいは私の感じ方が悪いのかもしれませ
んが、率直な感想です。                
                                                 (以上10月5日 つづく))


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