エルンスト・バルラハ展を観る     5月2日(火)

 東京藝術大学で開催されているエルンスト・バルラハ展を観てきました。
バルラハは1870年北ドイツのヴェーデルで生まれた彫刻家・劇作家です。ドイツ表現派の作家として有名ですが、日本では今まであまり知られていませんでした。日本ではロダンやブールデル、マイヨールなどフランスの彫刻家が知られており、ドイツの作家は紹介されることが少なかったことが原因です。

 私がバルラハを知ったのは、ケーテ・コルヴィッツとの関連からです。彼女の作品に「リープクネヒト追悼」という木版画の作品がありますが、この作品を制作する際コルヴィッツは当初リトグラフで制作をしました。しかしそれに満足できずにいるときバルラハの木版画を見る機会があり、ショックを受けます。それが契機となり彼女は木版画を制作し始め、「リープクネヒト追悼」を完成させました。

 コルヴィッツは晩年ナチスから迫害を受け、作品の制作・展示が出来なくなりました。それと同じころ、バルラハも同様の迫害を受け、非遇のうちになくなりました。そのとき彼の葬儀に出席したのはナチスからにらまれるのを恐れて極わずかの友人しかいませんでしたが、コルヴィッツもその一人でした。そのとき彼女はバルラハの死顔のスケッチをしています。これらのことはコルヴィッツの日記に書かれていますので知ることが出来ました。

     バルラハ(1935)                デスマスク(ケーテ・コルヴィッツ)

 バルラハ展は大規模なもので、彼の若いころからのスケッチ75点、版画36点、彫刻57点がありました。若いころの作品は、後の作品とは全く違い、フランスの作家と同じような作品に見えました。

 彼の作品が大きく変わるのは南ロシア(現在のウクライナ)を旅行してからです。旅行中にロシアの農民や乞食と出会いその姿に引かれて描いたスケッチがあり、そのときから彼本来の技法が生まれることになりました。彼がなぜロシアの素朴な人々に惹かれたのかについて主催者は「その土地の風景そして村人との出会いは、彼にとってまさに啓示となった。そのときバルラハは、人間とは何かを理解したのである。労働者や市場の女たちそして農夫ならびに物乞いという貧困と諦観の中に生きる人々、つまり苦悩する地上的存在である人々との出会いは、彼にとっては自分自身との出会いであった」と書いていました。

         復讐者(1914)                      最初の日(1922)

 1914年ドイツは第一次世界大戦に突入しました。ドイツ中は戦争賛美の熱気で満たされ、バルラッハも戦争を賛美しました。「復讐者」はそのころの彼の思想を代表する彫刻です。
 かなり以前のことになりますが、新潟近代美術館でレームブルグ、コルヴィッツらと同時にバルラッハの彫刻が展示されたとき、この作品が強く印象に残っていましたから、今回の展示でも、解説を含めじっくりと観てきました。

 ケーテ・コルヴィッツの戦争に対する姿勢はバルラハとは違いましたが、完全に反対の態度は取っておりませんでした。息子のペーターは志願兵として戦線に赴き数ヶ月後に戦死します。彼女は悲しみにくれますが、戦争は終わらずドイツの若者たちは次々に死に、被害はますます大きくなりました。ドイツには厭戦思想が広まり、コルヴィッツをはじめバルラハも戦争に批判的になりました。以後の彼は戦争には常に反対し、やがてナチス政府ににらまれるようになります。

 1933年にナチスが政権をとり、コルヴィッツはプロイセン芸術アカデミー会員を退会させられます。バルラハも1938年に退会を強要されました。1930年ごろから始まった、彼に対する右翼の攻撃はナチスが政権をとるや、ますます激しくなり、彼の制作した作品が次々と撤去され始めました。

マグデブルグ戦没者記念碑            耳をすます人たちのフリーズ(木彫)

 1934年には上記の記念碑が撤去され、木彫作品「再開」が博物館の常設展示から撤去されたのをはじめ他の美術館からも次々に撤去されました。また、「エルンスト・バルラハ素描作品集」がバイエルン州政治警察によって押収されました。
 ギュストロー大聖堂のブロンズ製の天使(この像の顔はコルヴィッツの顔を模して作られているので著名)は撤去され41年に溶解されてしましました。
 1938年にはハンブルグ市役所前に建てられた石材製のバルラッハのレリーフを撤去すると言うハンブルグ政府当局の決定がなされ、撤去され39年には完全に破壊されてしましました。

 このような不遇の中でエルンスト・バルラッハは1938年10月24日病没しました。享年68歳でした。
 


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