6月の展示 小口一郎木版画展「鉱毒に追われて」    6月6日

 6・7月の展示は小口一郎木版画「足尾鉱毒移民ー鉱毒に追われてー」です。
 この作品は昨年北海道の景川弘道さんを訪問した際、当館にご寄贈いただいた版画作品で、全40点中今回は25点を展示しています。

 作者の小口一郎(大正3年・1928〜昭和54年・1979)は栃木県小山市に生まれ苦労して版画家になりました。上野誠らとともに版画運動協会で活躍しました。彼の作品では足尾銅山の鉱害事件をテーマにした「野に叫ぶ人々」「鉱毒に追われて」「磐圧に耐えて」の三部作が有名です。

 今回展示している「鉱毒に追われて」は足尾銅山の鉱毒事件によって、明治44年から翌年にかけて北海道サロマ原野に移住した谷中村旧村民の苦闘を描いた作品です。


 明治10年(1877)、古川市兵衛が足尾銅山を買収して以来、銅山から垂れ流された鉱毒は、関東平野を貫流する利根川の支流=渡良瀬川が氾濫するたびに、魚類や農作物に大きな被害を与えました。つまり、日本最初の「公害」問題でした。被害民たちは栃木県選出代議士田中正造とともに、足尾銅山の操業停止を訴え、東京へ大挙請願運動を起こすなど鉱毒反対運動を展開しました。社会問題化するにつれて、明治政府はこの運動に弾圧を加えました。

 田中正造は「足尾銅山鉱毒事件として国会で取り上げ、繰り返し鉱山主古川市兵衛と政府の責任を追及しましたが、歴代政府の誠意ある対応を得られず、ついには明治34年(1901)天皇直訴未遂事件まで起こしました。この行動は当時のインテリ層や学生たちに衝撃を与えて、全国的な救援運動が起こりました。

 これに対して、明治政府は日露戦争中、足尾銅山の銅は兵器生産に不可欠なものと考え、古川財閥を擁護する立場に立ち、鉱毒問題を治水問題にすり替えて、買収、脅迫、懐柔、あらゆる策を用いて運動を分断し、最後まで谷中村にとどまっていた16戸には遊水池設置を理由に明治40年(1907)家屋破壊の強制執行が行われました。その上に、明治43年の民家の二階まで達する大洪水がおこり、窮乏した農民たちは栃木県が勧める北海道移民に応じるしかなかったようです。これは「移民」ではなくて、明治政府による抵抗勢力の「島流し」=「棄民」だったと言う人もいます。
 今も足尾には約2000ヘクタールの禿山、旧谷中村周辺には3000ヘクタールの湿地帯が広がり、鉱毒が残した被害の大きさを物語っています。

 明治44年の釧路新聞には栃木県より北海道に人々がやってきた時のことを次のように書いています。

『栃木県水害羅災民72戸284名は国庫補助金並びに地方の義捐を受けて本道に移住することとなりこれが移住地は常呂郡當沸村サロマ原野と確定し 来る12日陸別より建築列車に搭載して野付牛に着し 壮年者は翌13日14里の行程を踏破して直ちに現地サロマにいたり 老若の二者は13日ルベシベに一泊 14日現地に着することとなりたれば・・・・・・一方野付牛有志の間においても かなり便宜を与えんことの申し合わせをなし 寺院並びに演劇場をもって彼らの宿泊所にあて 布団等はこれを拠出してなるべく費用を省かんことに努めつつあり・・・・』

 移住民の出発  股を没する雪の中を  巨木の仕末

 新聞記事ではわかりませんが、目的地までの道は大変だったようです。当時の移民取り扱い委員であった大貫権一郎の日記によれば
『4月14日 午前7時出発。老幼者を馬車に馬車に分乗せしめ、第3区を出発す。道路の泥濘なる 閉口の外なし。第4区ルベシベより約3里の間は峠にして、一方は山岳一方は渓谷一歩誤れば二尺ないし三尺深さの雪中に両脚を没し、ようやく股にて止まる。又、途上に転倒するあり、その状況言語に尽くしがたし。・・・午後9時ごろようやく到着するを得たり』
とあります。服装は着物に白足袋に草履で、全然冬の用意はなかったようです。

                       
             (北見市史編纂ニュース NO85より転載)

 
      食    糧      祭日のこども角力       第二の居住地
 
 

                       制作にあたって           小口一郎

 私がこの足尾鉱毒事件を知ったのは、今から二十数年前のことです。この事件のおきた栃木県内に生まれながら、それまで知らなかったことに赤面の思いでした。
 そのころ、軍事基地反対闘争が農漁村の各地でおき、東富士辺りの農民は米軍基地における実弾着弾地に座り込んで戦っていました。
 農土を守るこの闘いと、鉱毒、公害から農土をまもるたたかいの共通点に私は注目し、この闘いの歴史を私の技術で掘り起こしてみようと思ったのです。 
 私はこの鉱毒事件の持つ歴史は、単なる歴史ではなく、我々の祖先が約九十年前から公害と闘った農民の歴史であり、後世に伝え遺す教訓であると思います。
 連作版画、第二集「鉱毒に追われて」は、明治44年、県当局が被害農民に対して、北海道開拓移民を策し勧誘した場面から始まります。同年四月人々は不安と望みをかけて66戸(210人)が、大正二年32戸が移住していきました。
 入植地北海道のサロマ原野は遠い異国の地、オホーツク海の流氷を待つ地方でした。
 しかし、鉱毒に苦しめられた農民は、ここを第二の故郷とすべく開拓の鍬をにぎったのです。冷害、凶作の追い打ちにあいながら、彼らの心のよすがとなったのは、かつての日々足尾銅山の鉱業停止を叫び、一身をなげうって、ともにたたかった田中正造でした。
 明司、大正、昭和と時代はうつり、いま一見広大な農場に見える開拓地60年の歴史は働きざかりの三代目にわたろうとしています。しかし、朝三時から夜の十時まで働くというきびしい北国の農作業、買い叩かれる農作物、日本列島改造によろ農村の荒廃は、この開拓地にも情け容赦なくおいかぶさりました。
 昭和46年、大四回目の帰郷請願が提出され、島流し同然の移住の真相は次第に明らかにされました。私は今度こそ60年に及ぶ望郷の思いを実らさなければ、移住者の恨みは消えないと思い積極的に帰郷実現のために協力しました。そして足尾鉱毒事件のもたらした鋭い爪跡を追いながら、「野に叫ぶ人々」の続編として制作に入りました。
 いま私はまたもや第三篇「磐圧にたえて」の制作にいどんでいます。古川財閥を築き上げた400年の歴史をもつ足尾鉱山、昔も今も搾取の形は変わりませんが、働く労働者のたたかいは前進しました。私の心のよすがにも、やはりかつての日々の田中正造と、闘った農民の励ましがあるのでしょうか。六十の年輪から描かざるを得ない気持ちで、また突っ走ろうとしているのです。
 
 渾身の力を込めた連作版画「鉱毒に追われて」をご鑑賞ください。


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