革新懇で考えたこと

2006912

ホテル信濃路

2006年度革新懇世話人総会(912日)が行われた。中心議題は長野県知事選挙の結果の総括だった。さまざまな意見が出されたが、私の印象に残った発言とそれに関連した感想を書いてみる。

1、懇談会の発言()

A 「田中康夫は新自由主義者だ」ということを言われたがそれは間違っている。30人学級実現や乳幼児の医療費問題、宅老所建設などは新自由主義の対極の政策であった。彼自身も「信州ルネッサンスは新自由主義の小泉改革とは対極の政策だ」といっている。

田中と村井の一騎打ちになった段階で自主投票の方針を田中支持に代えたほうが良かったと思う。11の対決なのだから、どちらかを選択しなければならない。だとしたら、田中を選択するということをはっきりさせるべきだったのではないか。選挙戦の最後になってその選択をしたが、もっと早い時期にはっきりさせてほしかった。

 高校現場の雰囲気は「田中支持」をいえる状況ではなかった。もし、本部がそのような方針を出せば組織の分裂も考えられる状況だった。労連の中でも田中支持を合意できない団体は高教組以外にもあった。
 県職員組合のアンケートでは97%が反田中という中での選挙であった。

 共産党は自主投票で臨んだが、これでよかったかどうかは皆さんの意見を集約して判断したい。
 今出されたのと違う意見も聞いている。松本猛さんは「共産党は自主投票だったのに、田中支持を表明されたのは残念だ。私は信濃美術館を外部委託されると聞いたとき知事に会って止めるようお願いしようとしたが断られた。何回もお願いしてやっと会えたがわずか5分だけだった」と言われた。

 田中知事の最大の弱点は教育問題だった。高校再編問題は民主的手続きも住民合意も無視された。しかし、利権集団と手を切り、県政を身近なものにした県政改革の実績は大きかった。この流れは県民の「県政改革の後戻りはいや」という選挙後の世論調査でも明らかだ。53万票をどう生かすかが大切だと思う。

 Bさんの苦渋の発言を聞いた。教育問題での問題点を理解しつつも全体を見ると「自主投票」の方針は地元を混乱させた。私の周りではいまだに「自主投票」をめぐって激論が続いている。あと3万余とれば勝てたのだから、最初から田中を支持してがんばれば違った結果が出たかもしれない。自主投票方針で元気をなくしたひとが多かったことを思うと残念だ。

 新婦人では今度の選挙は難しかった。723日に全国母親大会があったため、それに追われて選挙には手が回らなかった。大会が終わってからもみんなが心を合わせて選挙を戦うことができなかった。新婦人の中にもさまざまな意見があり、母親大会の帰りのバスの中でも田中批判が出るような状況だった。みんなが心を合わせて選挙を盛り上げることができなかったという意味では心残りの選挙だった。

 私は今回の選挙を全力で戦った。かつての同僚に電話したが、今までの選挙とは反応がかなり違った。今まで応援してくれていた人の何人かは田中への支持を断った。中には「俺は棄権をするが、それは積極的棄権だ」というひともいた。自主投票という方針は誤っていたのではないかと思う。
 田中の敗因は三つある。
1、母体の弱さがあった。
選挙の態勢ができていなかった。法定ビラが配られないという現象などは選挙態勢ができて いなかったことが原因だ。配れなかったところを高村県議たちが手配して配っていた。
2、田中自身の問題があった。
高校再編や住民票移転問題、県庁職員の移動、新党日本の党首就任など自ら支持者を離反させた。
3、支持する側の団体の弱さがあった。
 それぞれの団体が力いっぱい闘ったかというと、力を出しきれなかったのではないか。自主投票という方針がその一つの原因でもあったと思う。そこをもっと掘り下げる必要がある。

 私は満州事変の翌年小学校に入学した。同級会をやると同じ年代のものが集まり昔のことを話すのだが、我々同年代には草の根的に、あの侵略戦争を悪かったと思っていない人間がたくさん居る。
そもそもあの戦争は外国へ行ってやった戦争だ。そのことが議論の前提に無ければならない。人の家に入り込んで「ここが俺の家の防衛線だ」といってもそれは防衛の理由にならない。ところが、そのような理屈にならない理屈をつけている。この根本をはっきりさせないで「9条を守れ」といっても説得力が無いと思う。
 田中県政について言うと、この六年間は県民に大きなものを残したと思う。県政が身近になったことや改革された制度はこれからに生かせるはずだ。どのように生かすかが我々に試されている。

 6年前私は田中当選のため燃えた。今回は違った。原因は
1、田中さんは嘘つきだということがわかったからだ。
「木曾に道を作る」と公約したが作らなかった。人に聞いてみると、木曽谷にこれ以上道を作ることは無理だそうだ。
2、田中さんは人の心を壊した。
 田中さんを支持した人の信頼を次々に壊した。ある人にあったとき、「もし田中が勝ったら俺はこれを出す」といって辞表を見せた。傷つけられた人の気持ちがわからない人は困る。3、言っていることのつじつまが合っていない。
「老朽化した諏訪警察署を立て替える」問題で、一人の反対があったからという理由で老朽化した建物を残した。その一方で、あれだけたくさん反対の声がある高校再編は強引に押し通そうとした。これでは言うこととやることが矛盾しているではないか。
 憲法問題では「9条を守る」会があちこちにできているが、どの組織も金太郎飴で、集まるひとは同じ顔ぶれだ。これではいけないと思う。どうしたら幅広く結集できるか真剣に考える必要があると思う。

 私は自主投票を支持する。自主投票というのだから自分が自主的に判断すればいいのだ。国家公安委員長を務め、自民党県連会長をやったひとと田中康夫を比べ、属している組織からの指示が無ければ判断できないという人は自主的な判断ができない人なのではないか。
 今回の敗北の原因は田中氏自身が選挙について楽観していたことがある。直前に行われた新党日本の集会では自信満々のように見えた。選挙の直前まで公認で出るかのように言っていた。事務所も新党日本の駅前事務所を使えばいいかのようなことだった。これなどは「自分は勝てる」と思っていた証拠だ。
 田中応援団が今回は激減した。前回応援していた中心メンバーが潮の引くように手を引いてしまった。彼等の多くは反田中になったのではないが、積極的に応援する気がなくなったようだ。彼等の中にも根強い楽観論があった。相手が村井なら勝つに決まっている、と思っていた。 共産党は自主投票だったが最も積極的に応援したと思う。出口調査をみても共産党支持者のほとんどは田中に入れていた。仮に自主投票でなかったとしても大きな変化は無かったろう。

 先ほどGさんから話されたことに関連するが、戦争への認識では大きな違いを感じている。ある会合の懇親会で市の総務部長と激論になった。彼はあの戦争が正しかったといって説を曲げなかった。そばで聞いていたひとりは「(戦争に)負けたのがいけねえんだ」と言った。こういう状況がある一方、NHKで放映している「純情きらり」の視聴率がいいという。あそこでは戦争体制批判が繰り返し語られている。それを見ている人がたくさんいるというのも現実だ。これからは二つの考えのせめぎあいになるだろう。

 今回の選挙は長野県だけの選挙ではなかった。反動の側(国家権力)が練りに練って戦ったと見なければならない。村井は選挙民の前では慎重な発言をしているが、彼の本質は正真正銘の反動だ。私は彼のことは個人的にも良く知っているが幻想を持ってはならない。憲法についても安部は5年をめどに改正するといっている。これも前倒しで行うことを狙っているはずだ。そういうことを頭に置いて運動を進めていきたい。

2、二種類の沈黙
@  GさんとJさんの発言の中に戦争責任に触れる問題があった。地域の中に草の根的に「かつての戦争は正しかった」と思っている人間がいるという問題である。

 私は、戦争を体験した人の中に二種類の沈黙があったのではないかと思っている。
 第一の沈黙は、ここで語られたと同じ考えを持った人の沈黙である。

「かつて日本が行った戦争は悪くなかった」と思っている人はたくさんいたが、彼等はそのことを話さず沈黙していた。そのような意見が世間では通用しないことを知っていたからだ。さらに突っ込んで考えると、日本は戦争で負けたのだから「自分が正しかった」ということはできない、と思っていたのだ。

ところが最近は、新自由主義史観が大手を振り、小泉首相が靖国神社に参拝し、今まで発言することがはばかられていた発言がおおっぴらに発言できる雰囲気が生まれた。このような風潮の中で次第にかつての戦争体験を口にするようになってきたように思う。

 彼等の発言の主な内容は「国のために戦ったことのどこが悪い」「戦争なのだから、何をしても許されるはずだ。こちらがやらなければやられてしまうのが戦争だ」「戦場で敵を傷つけたり殺したりするのはどこの国もやっている。俺たちだけが責められるいわれはない」というものである。では、彼等が悪くなかったという体験はどのようなものだったのか。

 若いころ、いつも「戦争で人を殺すのは当たり前だ。殺さなければこっちが殺される」としゃべっていたPTA役員の一人が酒を飲んだあと、こんなことを得意げに話すのを聞いたことがある。

「戦争に行ったときのことだが、俺が街を歩いていると向こうから赤ん坊を抱いた母親が歩いてきた。俺の顔を見た赤ん坊がにこっと笑った。俺が赤ん坊のほうに行くと母親は赤ん坊を腕の中に入れて逃げようとした。それを見て頭にきたので、俺は母親から赤ん坊をひったくって地面にたたきつけた。母親は赤ん坊の上に身体を投げ出して覆いかぶさった。そこで俺はその母親もろとも赤ん坊を銃剣で刺し貫いてやった」

 このような話は公の場所では決して話されることは無かったが、ごく親しい男の仲間が集まった席では時々話されていた。また、別の人から強姦場面の話を二度ほど聞いたことがあるが、その時の舌なめずりをするような顔をむかつく思いで見たことがある。

このような話をする人間はそれを公然とは話せない。また、自らの行為と正面から向き合わず「戦争なのだからいろいろあるよ」「国のために戦うことのどこが悪い」「戦争になればどこの国でも人を殺したり傷つけるのは当たり前だ」と言っている。だが、心のどこかにそれに対する「負」の気持ちがあり、発言を抑えてきたように思う。

第二の沈黙は、自分が戦争で行ったことを苦しくつらい思い出として持っていた人たちの沈黙である。彼等も自分の思いを語らなかった。彼等は中国で無抵抗のひとを殺し、略奪し、強姦した。そして、そのことを誰にも語らなかった。最近封切られた「蟻の兵隊」を見るとそのようなことが無数にあったことが良くわかる。彼等は日本中に無数にいたが自らの経験を決して口にしなかった、というよりできなかった。

 私は母親からこんな話を繰り返し聞いた。
「終戦の日の午後、Aさんに会ったとき、戦争に負けた玉音放送があったと話したら、Aさんの顔から血の気がさあっと引いて『奥さん、日本は負けたでごわすか。それじゃあ今度はわしらがやったことをされるでごわすなあ』といった時の顔色ったらなかったよ。それを見て、わたしはこの人たちが外地でよっぽどひどいことをしてきたんだと思ったよ」と繰り返し言っていた。 Aさんは私の家とは縁があり、以前から親しくしていた。親切で働き者でやさしいおじさんだった。私は「坊さん、坊さん」といってかわいがってもらったが、母親からその話を聞いてからは、それまでとは違った目で彼を見るようになった。Aさんから戦争の話を聞いたことはない。

私の父親も赤紙で満州に送られた。戦後復員してきたが戦争の話はほとんどしなかった。子どもの私は勇ましい話を聞きたくてせびったが、話すのを嫌がった。時々話す話は「満州には白いカラスがいた」とか「黒竜江の氷は2メートルほどあり、戦車が通ってもびくともしない」という話だった。あるとき父が話した中に徴発という言葉が出てきた。「お祝いのときには民家に行って豚を徴発して来た」という話だったが、私は徴発と言う言葉を知らなかったため、「父ちゃん、徴発ってなに?」としつこく聞いた。父は「もらってくることだ」といったが「どうしてただでくれるの。ドロボーしたの?」と聞く私になにやらごちゃごちゃ言って話をはぐらかしてしまった。それ以来父は戦争の話は全くしなくなった。

彼等は日本が行った戦争が悪であることを誰よりも深く知っていた。彼等は黙ってはいたが日本が平和憲法を持っていることを支持し憲法第九条を大切に思っていた。保守、革新を問わずそれが国民多数の合意だった。

戦争体験者の沈黙は私たちに彼等の経験を伝えなかった。ほんのわずかな例外を除けば彼等の苦しい内面は彼等の死とともに地下に埋められてしまった。そのことが現在の自由主義史観や靖国賛美の風潮及び中国や韓国・朝鮮蔑視の風潮を促進したように思うのだ。


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